ミカ・ハッキネン
[Wikipedia|▼Menu]

ミカ・ハッキネン
2022年
基本情報
フルネームミカ・パウリ・ハッキネン
Mika Pauli Hakkinen
略称表記HAK
国籍 フィンランド
出身地同・ヴァンター
生年月日 (1968-09-28) 1968年9月28日(55歳)
F1での経歴
活動時期1991-2001
所属チーム'91-'92 ロータス
'93-'01 マクラーレン
出走回数161
タイトル2(1998, 1999)
優勝回数20
表彰台(3位以内)回数51
通算獲得ポイント420
ポールポジション26
ファステストラップ25
初戦1991年アメリカGP
初勝利1997年ヨーロッパGP
最終勝利2001年アメリカGP
最終戦2001年日本GP
テンプレートを表示

ミカ・パウリ・ハッキネン(Mika Pauli Hakkinen, 1968年9月28日 - )は、フィンランド出身の元レーシング・ドライバー1998年1999年を2年連続でF1ワールドチャンピオンになり、フライング・フィンと形容されていた。

その走りと人柄の良さで多くのファンに愛され、『AS+F[注釈 1]』の人気投票では1992年からF1を引退する2001年まで、10年連続で1位を獲得したほどの人気があり、“北欧の貴公子”,“白夜の国の王子様”とも呼ばれていた。7度の世界チャンピオンであるミハエル・シューマッハはハッキネンを「最強の敵であり、最高に尊敬できるライバル」と認めている[1][2][3]

現在、メルセデス・ベンツジョニー・ウォーカーのキャンペーン活動の他に、エーシズ・マネージメント・グループ社に加わりドライバー・マネージメント業として、若手ドライバーの発掘と養成にも携わっている[4]
F1までの道程
生い立ち

フィンランドヘルシンキ市近郊のヴァンター市で、短波無線通信士の父ハリーと、秘書である母アイラの長男として生誕。家族は他に姉ニーナがいる。6歳のとき、父親が勤めるヘルシンキ・ラジオ局に行った際、近くのケイモラ・サーキット(英語版)を見学したが、そこでカートに乗りたいと言いだし、たちまち夢中になりその才能を磨いていった。ハッキネンがカートを続けていくレース資金の捻出のため、父親が本業の他にパートタイムでタクシー運転手も務め、手書きの企画書を作成しスポンサーを探した。母親も毛皮競売会社での倉庫管理とスーパーマーケットレジ打ちを掛け持ちして行なっていた。
カート

ハッキネンは1981年にF-ミニクラス国内チャンピオンを獲得し、1982年にはロニー・ピーターソンメモリアル選手権のチャンピオンになった。そして1983年から1986年まで、4年連続でFNクラス国内チャンピオンに輝いた。1984年にはフランスのラヴァルで開催されたカート世界選手権でミハエル・シューマッハと初対決している。ハッキネンがフィンランド国内のみで走っていたのとは対照的に、シューマッハはすでにヨーロッパ各国で走っていたのでシューマッハのほうがカート界で有名であった。シューマッハはこのレースに優勝したが、ハッキネンはスタートが悪く、燃料系のトラブルを抱えており、3番手を走行中にイタリアロベルト・コルチアゴと接触し、スピンした。このレースにはのちにCARTでトップレーサーとして活躍するポール・トレーシーも出場していた。1986年末、それまでのハッキネンの活躍に注目したAKK(英語版)(フィンランド・モータースポーツ協会)の会長が、懇意にしており、スポーツエージェント企業「ユーロ・プロモーション」を設立していた1982年F1ワールドチャンピオンのケケ・ロズベルグに「すごく速い少年がいるから彼のことを頼む」とマネージメントを依頼した[5]。自らの目でもハッキネンの才能を確認したロズベルグは、以後ハッキネンがF1から引退するまで長く支援した[6]
ジュニア・フォーミュラ

1987年にフィンランド・スウェーデン・スカンジナビアのフォーミュラ・フォード1600の3シリーズで全てチャンピオンを獲得すると、同年のオフにドニントン・パークで行われたマールボロ・ドライバー・オーディションで合格しマールボロからのサポートを獲得[7]1988年からイギリスへと活動拠点を移し、ドラゴン・モータースポーツに所属してGM・ロータス・シリーズとオペル・ロータス・ユーロシリーズでそれぞれチャンピオンを獲得した。
F3
1989年

ドラゴン・モータースポーツからイギリス・フォーミュラ3選手権へステップアップし参戦。チーム(レイナード・トヨタ)の戦闘力に問題があったため、ハッキネンの1年目は決して順調ではなく、選手権7位であった。しかし、ウェストサリー・レーシング(WSR)から出走しシリーズチャンピオンになったアラン・マクニッシュ[注釈 2]が、チームスポンサーのマールボロからの褒美と、急遽F1参戦が決定したJJ・レートの代役としてパシフィック・レーシングから国際F3000最終戦に参戦する事になったために、F3チャンピオンチームであるWSRのシートに空きが生じた。ハッキネンは同じマールボロからのサポートを受けていたことから最終戦前にWSRへ移籍、初めてドライブするラルト無限でいきなりF3初優勝を飾った。この好結果により、ハッキネンは1990年シーズンの契約をWSRと交わすこととなった。
1990年1990年のマカオGPで駆ったラルトRT34(レプリカ)

1月24日シルバーストーン・サーキットで初めてF1マシンを体験。ベネトンから招待されB188[8]を走らせたハッキネンは、レギュラードライバーアレッサンドロ・ナニーニより速いタイムを叩き出し、注目された[9]

全17戦のイギリスF3選手権では、同国人であるミカ・サロとの激しい争いになり、"ミカ・ミカ対決"と呼ばれ、話題となった。開幕戦はハッキネンが制し、第2戦をサロと勝ち星を分け合う展開だったが、再びハッキネンが2連勝した直後にサロが3連勝。中盤からはハッキネンが5連勝と圧倒的強さで差を広げる。最終的にはハッキネンは9勝をあげ、イギリスF3チャンピオンとなった。ジャッキー・スチュワートはイギリス人が活躍しない同選手権に対して「ハッキネンとサロをイギリスから追い出してしまえ」とぼやいていた[10]。イギリスF3のほかドイツやイタリアのF3選手権にも遠征して完勝し、実力的にF3ではほぼ敵なしの状態にあった。イギリスF3チャンピオン獲得でハッキネンは初めて明確に「たぶん、F1も手が届かないわけじゃないぞと思えた」と語っている[11]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:276 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef