ミカ・サロ
ミカ・サロ (2011年)
基本情報
フルネームミカ・ユハニ・サロ
略称表記SAL
国籍 フィンランド
出身地同・ヘルシンキ
生年月日 (1966-11-30) 1966年11月30日(57歳)
F1での経歴
活動時期1994-2000,2002
所属チーム'94 ロータス
'95-'97 ティレル
'98 アロウズ
'99 B・A・R
'99 フェラーリ
'00ザウバー
'02 トヨタ
出走回数109
タイトル0
優勝回数0
表彰台(3位以内)回数2
通算獲得ポイント33
ポールポジション0
ファステストラップ0
初勝利?
最終勝利?
最終戦2002年日本GP
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ミカ・ユハニ・サロ(Mika Juhani Salo, 1966年11月30日 - )は、フィンランド出身の元レーシングドライバー。
妻は日本人で元レースクイーンのノリコ・サロ(遠藤賀子)、息子はレーシングドライバーのマックス・サロ[1]。 サロはカート時代から2歳年下で同じフィンランド人で同じ名前でもある、ミカ・ハッキネンとライバル関係にあり、「ふたりのミカ」として才能を比較された。出生地も同じヴァンター(Vantaa)市マルティンラークソであり、それぞれの生家は道路を1本挟んだだけの近さであった。現在、彼らが少年時代を過ごしたこの地域は“MIKA-MIKA-LAND”と呼ばれ、ヘルシンキ市近郊のちょっとした観光スポットになっている。 サロは1988年にフォーミュラ・フォード1600ヨーロッパチャンピオンを獲得。1989年、アラン・ドッキング・レーシング
プロフィール
ジュニア時代
ハッキネンとの関係
当初、ハッキネンは国際F3000選手権にステップアップする予定であり、サロも結果的には日本でF3000にステップアップしたため、予定通りであったなら似たようなキャリアとなるはずだった。ところが、ハッキネンがDAMSF3000のマシンのテスト走行を体験[2]した際、そのマシンを酷評したため[3]、ハッキネンのマネージャー、ケケ・ロズベルグが計画を変更。名門ではあったが存続の危機に瀕していたチーム・ロータスのシートを確保してF1デビュー[4][5]を決断したのに対し、サロにはハッキネンをマネージメントするロズベルグのようなF1への強いパイプを持つ援軍はいなかったこともあり、国際F3000選手権へのステップアップも決まらず、その後の両者のキャリアは明暗が分かれた。
F3時代の激しいライバル関係から、イギリスではサロとハッキネンが不仲であると報じられることも少なくなかったが、サロによると「僕らの間に問題が発生したことなんてない。そういう言い方をされるのは全てメディアのせいだ。元々フィンランドで近所なんだけど、その時から友達と言うわけではないんだ。僕らは年齢も2つ違うし、性格も全く違う。共通の話題が無いから話をしてる所を見る機会が少ないだけだ。顔を合わせれば普通に挨拶するよ。」と二人の関係性を語っている[6]。 1991年、活動の場を日本に移す。同年の全日本F3000選手権に第2戦から参戦。大雨となった第4戦MINEで6位に入賞し初ポイントを得たが、日本特有のハイグリップタイヤと未経験のサーキットで苦戦が多くを占めポイント獲得はその1戦のみのランキング22位で終了。 1992年もアド・レーシング
全日本F3 / 全日本F3000
1994年にそれまで使用していた無限エンジンからコスワースエンジンに変更すると、開幕戦・鈴鹿で3位となり、ついに全日本F3000での初表彰台を獲得。日本では4シーズンを戦い、最終年となった1994年にランキング最高位となるシリーズ7位となった。
当時サロと同じく来日参戦し、後にF1でも共に戦った仲間にはジョニー・ハーバート、エディ・アーバイン、ハインツ・ハラルド・フレンツェン、ローランド・ラッツェンバーガー、ジャック・ヴィルヌーヴ(全日本F3)らがおり、ジェフ・クロスノフ、トーマス・ダニエルソン、マルコ・アピチェラとも仲が良かった。サロはこの時期を振り返って、「日本での4年間は自分のキャリアにとって良い選択だった。