ミカド_(オペレッタ)
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「ミカド」のポスター。ヤムヤム、ピッティ・シング、ピープ・ボーの三姉妹が描かれている。.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル クラシック音楽

『ミカド』 (The Mikado; or, The Town of Titipu ) は、ウィリアム・S・ギルバート脚本、アーサー・サリヴァン作曲による二幕物のコミック・オペラ(英国式オペレッタ)。ギルバート・アンド・サリヴァンの14作品のうち9作品目であった。1885年3月14日にイギリスロンドンストランドにあるサヴォイ劇場で初演されて672回上演し、当時の歌劇史上2番目の上演回数を誇り、舞台作品の中でもロングラン作品の1つとなった[1][n 1]。1885年の終演までにヨーロッパやアメリカで少なくとも150カンパニーが上演した[2]。現在もサヴォイ劇場でしばしば上演されているだけでなく、アマチュア劇団や学校演劇でも演じられている。様々な言語に翻訳され[n 2]、歌劇史上最も多く上演される作品の1つとなっている。
概要

当時、ロンドンのナイツブリッジで日本の風俗文物を見世物とした日本展(ジャパン・ビレッジ)が人気を博し、イギリスでは空前の日本ブームが起きていた。日本風の登場人物たちが巻き起こすドタバタ喜劇を通して当時のイギリス政府を風刺した『ミカド』はこのブームに乗じた作品で、一種のジャポニスムまたはオリエンタリズムである。初演後2年間のロングランになったが、内容があまりにも日本の天皇を笑い者にしているとして駐英日本大使が上演差し止めを試みたが成功せず、1907年の再演時にも抗議したが聞き入れられず、世界各地で大評判の演目となった[3]。このヒットにより、Mikadoという単語が日本の代名詞として広まった[4]

当時の英国の世相、わけても上流階級や支配階級に対する辛辣な風刺を含む一方で、作品の舞台を英国からできるだけ遠い「未知の国・日本」に設定することで、「これは遠い国の話で英国とは関係ない」として批判をかわそうとしている。ギルバートは『ミカド』の他、よりソフトではあるが『Princess Ida 』、『The Gondoliers 』、『Utopia, Limited 』、『The Grand Duke 』でも風刺を行なっている。

現代でも演じられるが、人種問題に敏感なアメリカではアジア系コミュニティからしばしば抗議を受けている[5]
経緯1895年頃のヴォーカル・スコア表紙

ギルバート・アンド・サリヴァンはサヴォイ・オペラのスタンダードである9ヶ月続いたオペラ『Princess Ida 』の直後に『ミカド』を作成した[6]。1884年の『Princess Ida 』が1877年以降の彼らの作品の中で初めてチケット売り上げが振るわず、興行主のリチャード・ドイリー・カート(英語版)はたとえ打ち切ったとしても彼らの新作がまだできていないことが気になった。1884年3月22日、カートはギルバート・アンド・サリヴァンに6か月以内に新作を製作させる契約を結んだ[7]。1883年12月、サリヴァンの親友で指揮者のフレデリック・クレイは重度の脳卒中を患い、キャリアに影響が出ていた。また自分の不安定な健康も影響して、よりシリアスな音楽の製作に専念するようになり、サリヴァンはカートに「これまでのような作品を製作することはもうできない」と告げた[8][9]。この時ギルバートはすでに、魔法の飴を舐めると意志に反して恋に落ちるという新作の脚本に取り掛かっており、サリヴァンの躊躇を聞いて驚いた。彼はサリヴァンに考え直すよう手紙を書いたが、1884年4月2日、「(オペラ製作への)意欲は尽きた」と返事が来た:.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}...理由は一言では言い表せないが音楽への意欲が減退してきている....(シリアスでなく)ユーモラスな状況でなければユーモラスな言葉は出てこない。ドラマティックな状況であれば、それに似たキャラクターになるだろう[10]

サリヴァンはギルバートのこの新作には関わることができず、ギルバートはひどく落胆した。さらにこの新作は1877年に彼らが製作したオペラ『The Sorcerer 』に似過ぎていた。サリヴァンはロンドンへ戻り、ギルバートはこの新作を書き直したが、サリヴァンを納得させることはできなかった。行き詰まり、ギルバートは「7年間の音楽、脚本の共同製作-そして高い評判-、金銭的不公平、不快で不調和からくるこれまでの状態も終わりが来た[11]。」と愚痴を記した。1884年5月8日、ギルバートは譲歩し、「もし超常現象を取り入れなければきみはまた共に作業してくれるかい。時代遅れでなく、矛盾のない筋で、私の可能な限り誠実に製作するつもりだ」[12]。平行線は終わりを見せ、5月20日、ギルバートはサリヴァンに『ミカド』のあらすじを送った[12]。結局『ミカド』上演まで10か月かかった。サヴォイ劇場にて1877年の『The Sorcerer 』の再演版が一幕物の『Trial by Jury 』(1875年)と共に新作初演までの繋ぎとして上演された。1892年、ギルバートは前述の「魔法の飴」の話をアルフレッド・セリアと共に『The Mountebanks 』として発表した。ウィリアム・S・ギルバートが撮影した日本村[13]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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