ミェシュコ1世
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方
出典検索?: "ミェシュコ1世" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2011年7月)
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、ポーランドの初代国王ともされる君主について説明しています。同名のポーランドの領主貴族については「ミェシュコ」をご覧ください。

ミェシュコ1世
Mieszko I
ポーランド公

在位963年 - 992年

出生935年?

死去992年5月25日

配偶者ドゥブラフカ
 オーダ・フォン・ノルトマルク
子女ボレスワフ1世
シフィエントスワヴァ 他
家名ピャスト家
王朝ピャスト朝
父親シェモミスウ
テンプレートを表示

ミェシュコ1世(Mieszko I, 935年? - 992年5月25日)は、ピャスト朝ポーランド王国の創始者で初代ポーランド公(在位:963年 - 992年)。ポーランド王国の基幹部族となったレフ族(ポラニェ族)の族長シェモミスウの子、レストコの孫、シェモヴィトの曾孫、ピャストの玄孫。
生涯

963年、ポーランド公に即位する。しかし即位直後からウィエルトやヴォリニアなどのスラヴ系支族とその同盟者のザクセン貴族ヴィヒマン2世(ビルング家、en)の侵攻に悩まされ、バルト海沿岸のポンメルン地方を侵略されてしまった。しかし政治能力に優れた人物で、その後の神聖ローマ帝国の侵略を食い止めるために、ローマ教皇に莫大な貢物を送ってその援助を受け、966年にはカトリックに改宗した。その際、設置されたポズナンの司教座は教皇に直属した。また、ザクセン系の聖職者ではなく、バイエルン系の聖職者から洗礼を受けることで、神聖ローマ帝国の影響下に入ることを巧みに避けた。そしてチェック人が築き上げたチェック(ボヘミア)公国の公女ドゥブラフカを妃として迎えることで同盟を結び、連合してポモージェを奪還し、マウォポルスカ、シロンスクも併合して後のポーランド王国の原型を形作ったのである。3000名を擁するといわれる従士団が統一の大きな推進力となった。

992年に死去し、最初の妻ドゥブラフカ(ボヘミア公ボレスラフ1世の娘、かつてマイセン辺境伯ギュンターの妻であった)との息子ボレスワフ1世が公位を継いだ。

現在ポーランドで発行されている10ズウォティ紙幣の、表面側の肖像に採用されている。
子女

965年に結婚したドゥブラフカ(977年没)との間に以下の子女をもうけた。

ボレスワフ1世(966/7年 - 1025年) - ポーランド王

シフィエントスワヴァ(シグリダ、en) - 長女。最初スウェーデンのエリク6世に嫁ぎ、王妃シグリッドとしてスウェーデン王オーロフを生み、次いでデンマークスヴェン1世に嫁いで、王妃グンヒルとしてクヌーズ2世(カヌート大王)を生んだ。

次女

978年頃、ノルトマルク辺境伯ディートリヒの娘オーダと結婚し[1]、息子をもうけている[2]
脚注^ 三佐川、p. 67
^ 三佐川、p. 204

参考文献

三佐川亮宏 『紀元千年の皇帝 オットー三世とその時代』 刀水書房、2018年










ポーランド君主(963-992)
伝説的な首長

レフ1世

クラク1世

クラク2世

レフ2世

ヴァンダ

レシュコ1世

レシュコ2世

レシュコ3世

ポピェル1世

ポピェル2世

ピャスト

半伝説的な首長

シェモヴィト

レシェク

シェモミスウ

ピャスト朝

ミェシュコ1世963?992

ボレスワフ1世992?1025

ミェシュコ2世1025?1031

ベスプリム1031?1032

ミェシュコ2世(復位)1032?1034

カジミェシュ1世1039?1058

ボレスワフ2世1058?1079

ヴワディスワフ1世ヘルマン1079?1102

ズビグニェフ1102?1107

ボレスワフ3世クシヴォウスティ1102?1138

ヴワディスワフ2世ヴィグナニェツ1138?1146

ボレスワフ4世ケンジェジャヴィ1146?1173

ミェシュコ3世スタルィ1173?1177

カジミェシュ2世スプラヴィエドリヴィ1177?1190

ミェシュコ3世スタルィ(復位)1190

カジミェシュ2世スプラヴィエドリヴィ(復位)1190?1194

レシェク1世ビャウィ1194?1198

ミェシュコ3世スタルィ(復位)1198?1199

レシェク1世ビャウィ(復位)1199?1202

ミェシュコ3世スタルィ(復位)1202


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:23 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef