ミェシュコ1世プロントノギ
Mieszko I Pl?tonogi
ポーランド大公
在位1210年 - 1211年
出生1130年頃
死去1211年5月16日
配偶者ルドミラ
子女カジミェシュ1世
リュドミラ
アグニェシュカ
エウフロシニヤ
リクサ?
家名シロンスク・ピャスト家
王朝ピャスト朝
父親ヴワディスワフ2世
母親アグネス・フォン・バーベンベルク
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ミェシュコ1世プロントノギ(ポーランド語:Mieszko I Pl?tonogi、1130年頃 - 1211年5月16日)は、シロンスク公(在位:1163年 - 1173年、兄と共同統治)、ラチブシュ公(在位:1173年 - 1211年)、オポーレ公(在位:1202年 - 1211年)、クラクフ公及びポーランド大公(在位:1210年 - 1211年)。ヴワディスワフ2世(亡命公)の次男、母はオーストリア辺境伯レオポルト3世の娘で、ローマ王コンラート3世の異父妹であるアグネス。ボレスワフ1世の弟、コンラトの兄。異称である跛足公(Pl?tonogi)は、14・15世紀の年代記で使われるようになった。
生涯
ドイツへの亡命1773年から1777年にかけてのシロンスク、黄色の部分がミェシュコの領土
父が大公の地位を追われた1146年以後、ミェシュコとその家族はザクセンのアルテンブルクに住んでいた。この都市はヴワディスワフ2世が義兄のローマ王コンラート3世から一時的な領地として与えられたものだった。亡命生活の間、ミェシュコはミヒャエルスベルクとバンベルクで学んだ。ところが一時的な亡命生活だったはずのヴワディスワフ2世は、1159年にアルテンブルクで客死してしまった。息子達は父の遺産を回復すべく戦い続け、4年後の1163年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の政治介入によって、ミェシュコと兄のボレスワフ1世(長身公)はシロンスクに帰還した。 ミェシュコ1世とボレスワフ1世は1163年から1173年までヴロツワフ公国
ラチブシュ公
しかし、まもなくミェシュコ1世は自分個人の公国を所有することを望むようになった。この原因の一端には、兄が国家統治を独占してミェシュコ1世をほとんど国政に参加させないようになったことがあると思われる。1172年、ミェシュコ1世は甥でボレスワフ1世の長男であるヤロスワフを味方につけて兄に対して公然たる反乱を開始した。ヤロスワフは自分の産んだ息子達だけに公国の相続権を与えようとした継母クリスティーネの策謀によって修道士にされていた。反乱は成功を収め、ボレスワフ1世はドイツのエアフルトに亡命した。まもなくフリードリヒ1世の介入でボレスワフ1世はシロンスクに帰国したが、ミェシュコ1世(チェシンとラチブシュ)とヤロスワフ(オポーレ)に領土を分割することを余儀なくされた。
ビトムとオシフィエンチム1177年から1202年にかけてのシロンスク、黄色の部分がミェシュコの領土
1177年、ミェシュコ1世は名前をくれた叔父ミェシュコ3世(老公)がクラクフ公国に対する支配を維持するための戦いを支援した。この争いは、クラクフ公国及び長子権の獲得を狙う兄ボレスワフ1世と叔父を助けるミェシュコ1世との間の争いを再燃させた。しかし、クラクフを奪取しようとするボレスワフ1世の野心は、これを危ぶんだミェシュコ1世とヤロスワフによる再度の反抗に苦しめられた。
そこでボレスワフ1世は一番年若い叔父であるカジミェシュ2世(正義公)と同盟し、カジミェシュ2世はクラクフを奪取してポーランド大公を称した。弟に大公の座を追われたミェシュコ3世は、ラチブシュのミェシュコ1世の許に亡命し、ミェシュコ1世とカジミェシュ2世の戦争発生は確実と思われた。しかしカジミェシュ2世はミェシュコ1世との友好関係を構築する道を選び、ミェシュコ1世にビトムとオシフィエンチム(及びビトムとオシフィエンチムの要塞、ミコウフ、シェヴィエシュ
、プシュチナ)を与えた。一方でボレスワフ1世はドイツへ再度亡命、カジミェシュ2世の調停で帰国したが、同じくドイツから帰国した末弟コンラトがシロンスクに対する相続権を主張し、グウォグフを分割譲渡するのを余儀なくされると、1173年の分割もあって彼の権勢はますます衰えた。1195年、ミェシュコ1世と甥ヤロスワフは、ミェシュコ3世のクラクフ公国及び長子権を回復しようとする試みを支援し始めた。カジミェシュ2世が未成年の息子達を残して死ぬと、マウォポルスカを奪取する機会も生じた。