マー・ワラー・アンナフル
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かつてのアラル海へ流れ込むアム川(南より)とシル川(東より)

マー・ワラー・アンナフル(アラビア語: ?? ???? ?????‎、アラビア語ラテン翻字: M?-war?' an-Nahr)またはトランスオクシアナ(英語: Transoxiana/Transoxania)とは、中央アジア南部のオアシス地域の歴史的呼称である。

アラビア語で「川の向うの土地」を意味する言葉で字義通りにはアム川北岸の地域を指し[1][2]、ギリシア語やラテン語で書かれたヨーロッパの史料に見られる「トランスオクシアナ(Transoxiana、オクサス川(アム川)より向こうの地)」と同じ意味を持つ[1][3][4][5]。日本では、英語読みの「トランスオキジアナ」と表記されることもある。実際にはアム川とシル川の間の地域を指す言葉として使われ[1][6]、その領域には、今日のウズベキスタンタジキスタン、それにカザフスタンの南部とクルグズスタンの一部が含まれている[2][1]。北はカザフステップ、西にカスピ海、南東に天山山脈パミール高原が位置し、西南にキジルクム砂漠カラクム砂漠が広がる。北から南、西から東へ向かうにつれて海抜高度が上がり、一年を通じて乾燥した気候にあり、気温の年較差は大きい[7]トランスオクサニアと中央アジアの大ホラーサン州とホラズム州の近隣地域

「マー・ワラー・アンナフル」と呼ばれる地域は、イスラーム以前のサーサーン朝アケメネス朝の行政単位をそのまま用いてソグディアナと呼んでいた領域とほぼ重なる。また、サマルカンドブハラなどのマー・ワラー・アンナフル南部の地域はかつてのソグディアナの名称がそのまま残り、特に「スグド地方( ???? ??? bil?d-i Sughd)」とも呼ばれ、現在のタジキスタンソグド州に名称が受け継がれている。

「マー・ワラー・アンナフル」は主としてイスラーム化後の時代を指して使用される語であり[6]イラン(イーラーン)と対峙する地域であるトゥーラーン( ????? T?r?n)と呼ばれた地域とほぼ同一である[8][9]ティムール朝の時代にはマー・ワラー・アンナフルとトゥーラーンの呼称が併用され、トゥーラーンはアム川からホータンの境界に至る広範な地域を指し示していた[10]

7世紀以降、アラビア語、ペルシア語の地理書などでは、マー・ワラー・アンナフルの領域はおおよそアム川(ジャイフーン川)を西境とし、東はシル川(サイフーン川)までの地域を指す場合が多かった。マー・ワラー・アンナフルの北限は不明確であり、イスラーム時代の初期にはアラブの征服地の範囲とほぼ一致し、15世紀ティムール朝の歴史家ハーフィズ・アブルーはシル川より北の地域をマー・ワラー・アンナフルに含めていた[11]テュルク(トルコ)系民族の諸勢力が多いシル川よりも北の地域は「トルキスタン」と呼ばれ、10世紀末からマー・ワラー・アンナフルのテュルク化が進行すると、シル川以北の地域と同じようにトルキスタンと呼ばれるようになる[4]。シル川以北の「東トルキスタン」に対して、この地域は「西トルキスタン」と呼称されることもある[6]。トルキスタンの地名が広まった後、「マー・ワラー・アンナフル」の呼称は雅称としても使われるようになる[4]
古代

ザラフシャン川カシュカ川、アム川に流入する支流の流域ではオアシスが形成され、農業が営まれていた[1]。アム川やシル川、ザラフシャン川などの河川の流域にサマルカンドブハラなどに代表される都市や村落群と耕地が開発され、定住地域の周辺に広がる草原や砂漠には遊牧民が闊歩する地であった。また中国内地とを結ぶシルクロードが発達し、テュルク系民族やソグド人などが交易などを通じて東西を結んだ。

紀元前6世紀にトランスオクシアナはアケメネス朝のキュロス2世によって征服され[12]、ソグド州に区画される[13]。アケメネス朝期のソグド州でどのような統治が敷かれたかは明らかになっていないが、アラム語アラム文字が導入され、アラム文字はソグド文字の原型となったと考えられている[14]。アケメネス朝を滅ぼしたマケドニア王国アレクサンドロス3世に対してトランスオクシアナの住民は一度は降伏するも反乱を起こし、紀元前329年から紀元前327年までの間およそ50,000のマケドニア兵が反乱の鎮圧に動員された[15]。アレクサンドロス3世による征服の後、ヘレニズム文化がトランスオクシアナにもたらされる[11]

アレクサンドロス3世の死後、トランスオクシアナはセレウコス朝バクトリア王国の支配下に入り、バクトリアの貨幣を模した貨幣が鋳造されはじめる[14]紀元前2世紀にバクトリア王国が大月氏によって滅ぼされた頃、トランスオクシアナは遊牧民族の康居によって支配されていたと言われている[14]。トランスオクシアナと中国を結ぶ交易路は大月氏や匈奴などのタリム盆地に勢力を有する遊牧勢力に阻まれていたが、前漢武帝によるフェルガナ大宛)遠征の結果、紀元前2世紀から交易が開始される[16]


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