マーリー・マトリン
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マーリー・マトリン
Marlee Matlin
2009年
本名Marlee Beth Matlin
生年月日 (1965-08-24) 1965年8月24日(58歳)
出生地 アメリカ合衆国 イリノイ州モートングローヴ
国籍 アメリカ合衆国
職業女優
ジャンル映画テレビドラマ
活動期間1986年 -
配偶者Kevin Grandalski(1993年 - )
主な作品
愛は静けさの中に
コーダ あいのうた

 受賞
アカデミー賞
主演女優賞
1986年愛は静けさの中に
ゴールデングローブ賞
主演女優賞(ドラマ部門)
1986年『愛は静けさの中に』
全米映画俳優組合賞
キャスト賞
2021年『コーダ あいのうた
その他の賞
ハリウッド名声の歩道
2009年 映画産業への貢献、映画・演劇業界への業績に対して

備考
聴覚障害者(右耳の聴力すべてと左耳の聴力の80%)
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マーリー・ベス・マトリン(Marlee Beth Matlin, 1965年8月24日 - )は、アメリカ合衆国イリノイ州出身の女優著作家活動家。マトリンはアカデミー賞ゴールデングローブ賞全米映画俳優組合賞など数多くの賞(英語版)を受賞しており、さらに英国アカデミー賞に1回と、プライムタイム・エミー賞に4回ノミネートされている。

18ヶ月の時に失聴したマトリンは[1]、1986年のロマンス映画『愛は静けさの中に』を演じて演技デビューを果たし、アカデミー主演女優賞を受賞した。マトリンはろうの演技者として初めてアカデミー賞を受賞するとともに主演女優部門の最年少受賞者(英語版)となった[2][3][4][5]。マトリンは刑事ドラマシリーズ『リーズナブル・ダウト 静かなる検事記録(英語版)』(1991年-1993年)に出演してゴールデングローブ賞に2回ノミネートされ、『となりのサインフェルド』(1993年)、『ピケット・フェンス』(1993年)、『ザ・プラクティス ボストン弁護士ファイル』(2000年)および『LAW & ORDER:性犯罪特捜班』(2004年-2005年)へのゲスト出演で、プライムタイム・エミー賞に4回ノミネートされた。2021年の映画『コーダ あいのうた』での演技で全米映画俳優組合賞キャスト賞に輝いた。マトリンは全米ろう者協会(英語版)の著名なメンバーであり、マトリンの手話通訳者はジャック・ジェイソンである[6][7]。2009年に、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームの星を獲得した。
生い立ち

マトリンはリビー(旧姓ハマー、1930?2020)[8]と自動車販売業のドナルド・マトリン(1920-2013)を両親としてイリノイ州モートングローヴで生まれた[9]。生後18ヶ月の時に病気と高熱によって右耳の聴力すべてと左耳の聴力の80%を失った。自伝 I'll Scream Later の中で、マトリンの聴覚障害は遺伝的な蝸牛の奇形によるもの可能性を示唆している[10]。家族の中でマトリンだけがろう者である。マトリンは自身の聴覚障害についてのユーモアのセンスを楽しんでいる:「よくスピーカーフォンで話すのだけど、10分ほど経つと『待って、マーリー、どうして私の声が聞こえるの?』と言われます。話している相手が手話通訳者がいることを忘れるのです。そこで私は『水曜日には聞こえるよ』と言います。」[11][12]

マトリンと二人の兄、エリックとマークは改革派ユダヤ教徒の家庭で育った。マトリン家のルーツはポーランドおよびロシアにある[13][14]。マトリンはろう者用のシナゴーグ(コングリゲーション・ベネ・シャローム)に通い、ヘブライ語を発音通りに学んだので、自分のバト・ミツワーのためのトーラーの部分を学ぶことができた。後に書籍 Mazel Tov: Celebrities' Bar and Bat Mitzvah Memories(『マゼル・トフ:有名人のバルおよびバト・ミツワーの思い出』)のためのインタビューに答えている[15]。マトリンはアーリントンハイツのジョン・ハーシー高校を卒業し、イリノイ州パラタインのハーパー・カレッジに通った[16]。マトリンは刑事司法の道に進むことを計画していた[17]。自伝の中で、11歳のときにベビーシッターから、高校時代には教師から性的虐待を受けたことを記述している[18]
キャリアマトリン、1989年

マトリンは7歳の時に国際ろうと芸術センター(: International Center on Deafness and the Arts、ICODA)の『オズの魔法使い』の児童劇団のドロシー役で舞台デビューし[19]、子供時代を通してICODAの児童劇団に出演し続けた[20]。13歳の時に「私が映画スターじゃなかったら」と題したエッセイでシカゴセンターの年次国際創造芸術祭で2位を獲得した。

ICODAの劇場公演の一つに出演中にヘンリー・ウィンクラーに見出され、これが最終的に『愛は静けさの中に』(1986年)での映画デビューに繋がった[21]。この映画は一般的に好評を博し、聴者の男性に恋をした話すことに消極的なろう者であるサラ・ノーマン役のマトリンの演技は高い評価を受けた:タイム誌のリチャード・シッケル(英語版)は「(マトリンは)歌う時に自分の -- そして観衆の -- 感情に集中する類稀な才能を持っている。しかし、それだけではなく、皮肉な知性、激しいが距離を置かないウィットがあり、これは思考を撮影する有名な能力をもつ映画でごくまれな演技で発見されるものだ」と書いている[22]シカゴ・サンタイムズ紙ロジャー・イーバートはもまたマトリンに感銘を受け、「彼女は共演している大物俳優に対抗し、情熱と、拒絶されることへのほとんど痛みを伴う恐怖で場面を進め、それこそが彼女の反逆の正体である」と書き[23]ワシントン・ポスト紙のポール・アタサニオは「この役の最も明白な課題は、話さずに伝えることだが、マトリンはサイレント時代のスターがそうしていたように、目、身振りによってそれに立ち向かっている と述べている[24]


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