マーリク・イブン・アナス
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マーリク・ブン・アナスの主著『ムワッター』の刊本の書影。

マーリク・ブン・アナス(M?lik b. Anas, ?-796年)は、8世紀のイスラーム法学者マーリキー法学派の祖。生涯のほとんどを「預言者の町」マディーナで過ごした。主著『ムワッター』は当時のマディーナの慣習法を提示する。ジャアファル・サーディクと同時代人。
生涯

マーリクのより詳細な名前は、アブーアブドゥッラー・マーリク・ブン・アナス・ブン・マーリク・ブン・アビーアーミル・ブン・アムル・ブヌル・ハーリス・ブン・ガイマーン・ブン・フサイン・ブン・アムル・ブヌル・ハーリス,アルアスバヒーという[1]。マーリクは、クライシュ族のひとりタイム・ブン・ムッラを始祖とするタイム部族の一家系、フマイル(?umayr)家に属する[1]。マーリクの父も祖父も、法規範に詳しい知識人であった[2]

生誕年は不明であり、史料が推定する生誕年にはヒジュラ暦90年から97年の間(708年-716年)と、開きがある[1]。どのような教育を受けたかについてもよくわかっていない[1]。比較的後年の史料に出てくる話ではあるが、メッカで「ラアイ(ra?y)のラビーア」という異名のあったラビーア・ブン・ファッルフ(Rab??a b. Farru?)にフィクフ(fiqh は後年「法学」を意味することとなるが、8世紀のこの時点ではいまだ学として確立するに至っていないため、ここでは「預言者を通して示された神の命令を理解すること」という fiqh 本来の意味。)を学んだという話は、ありうることである[1]。なお、後の史料になればなるほど、マーリクが学んだとされる師匠の数が増加する[1]

マーリクは生涯のほとんどをマディーナで過ごしたようである[1][2]。史料により正確な時期を特定できる出来事としては、762年にヒジャーズ地方アリーの一族の支持者が起こした蜂起にマーリクが巻き込まれたという事件がある[1][3]。その前年761年に、ハサン裔のアブドゥッラーの治めるメッカに反乱の気配を感じ取ったアッバース朝カリフマンスールが、アブドゥッラーの息子ムハンマドとイブラーヒームの兄弟を引き渡す仲介をマーリクに命じた[1]。このことから、いくつかの事実が推定される[1]。マーリクは、761年の時点ですでにバグダードにまで知られるほどの名望と威信を得ていた、そして、マーリクがアッバース朝の中央政府に敵意を持っていると考えられてはいなかったということである[1]

この仲介は成功せず、アブドゥッラーの息子ムハンマドは762年にマディーナで挙兵する(英語版)[3]。マーリク自身はこの挙兵に関わっておらず家にこもっていたが、預言者モスクで「マンスールに忠誠を誓った者のうち、強制されて誓いを立てた者は、必ずしもこれに拘束されない」というファトワーを出した[1][3]。これにより反乱に加わりたくても誓約に縛られて加われなかった者たちが、瞬く間に反マンスール勢力に加わった[1]

反乱は763年に鎮圧され、マーリクは、新しくマディーナの代官に就任したジャアファル・ブン・スライマーンの命令で鞭打ち刑に処せられた[1]。マーリクは刑の執行に起因する肩の脱臼に苦しむが、これによりかえって尊敬を受けるようになった[1]。なお、アブー・ハニーファにも獄中で虐待されたという伝承があるが、マーリクのエピソードを下敷きにして創作された伝承とみられる[1]

その後のマーリクは、アッバース朝政権と平和な関係を保ったものとみられる[1][2]タバリーによると777年にカリフ・マフディーがメッカの聖域の構成を変更する件でマーリクに意見を諮問した[1]。アブー・ヌアイムやスユーティーによると、796年、すなわちマーリクが亡くなった年に、カリフ・ラシードがメッカ巡礼の折にマディーナのマーリクのところを訪問したという[1]。この際、カリフはマーリクの著書『ムワッター』をイスラームの聖典にすると所望して聞かず、マーリク自身がカリフをなんとか説得して諦めさせたという[1]。このエピソードはいささか脚色に過ぎると評価されているが、カリフの訪問自体は歴史的事実であろう[1]

マーリクは796年にマディーナで病死した[1]。太陽暦換算で85歳前後である[1]バキー墓地に埋葬され、葬列は当時のマディーナの代官アブドゥッラー・ブン・ザイナブ(Abd All?h b. Zaynab)が仕切った[1]。後年、埋葬された場所の上にクッバ建築が立ったことが、メッカとマディーナを訪れた巡礼旅行者の旅行記(リフラ)により確認できる[1]

信心深い人たちの中には、ティルミズィーが収録したハディースのひとつを、後世におけるアブー・ハニーファ、マーリク、シャーフィイーの登場を預言者ムハンマドが予言していると解釈する者もいる[1]。マーリクを崇敬する派の宗教書ではマーリクが母の胎内で3年を過ごしたというエピソードが書かれる場合がある[1]。マーリクに批判的な派の宗教書ではマーリクが若い頃は歌手になろうとしていたけれども母親におまえは顔が不細工だからやめておけと言われてフィクフを研究することになったというエピソードが書かれる場合がある[1]。マーリクと若き日のシャーフィイーが出会う話も宗教書には好んで取り上げられるエピソードであるが、歴史的事実であるという保証は与えられていない[1]
著作詳細は「ムワッター」を参照

マーリクの『ムワッター』は現在に伝わった法学書の中で最古のイスラーム法学書である(ザイド・ブン・アリーの法学書が最古とする説もある)[1]。『ムワッター』の伝承の過程で学派(マズハブ)が発生し、「マーリク法学派」(マーリキーヤ)と呼ばれるようになった[1]


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