マーベリック郡_(テキサス州)
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テキサス州マーベリック郡
イーグルパス市にあるマーベリック郡庁舎
郡のテキサス州内の位置
州のアメリカ合衆国内の位置
設立1856年
郡庁所在地イーグルパス
面積
 - 総面積
 - 陸
 - 水
3,346 km2 (1,292 mi2)
3,315 km2 (1,280 mi2)
31 km2 (12 mi2), 0.90%
人口
 - (2010年)
 - 密度
54,258人
14人/km2 (36人/mi2)
標準時中部: UTC-6/-5
ウェブサイト ⇒www.co.maverick.tx.us

マーベリック郡(マーベリックぐん、: Maverick County)は、アメリカ合衆国テキサス州の南西部に位置するである。2010年国勢調査での人口は54,258人であり、2000年の47,297人から14.7%増加した[1]郡庁所在地はイーグルパス市(人口26,248人[2])であり[3]、同郡で人口最大の都市でもある。マーベリック郡は1856年に設立され、郡名は牧場主で州議会議員を務めたサミュエル・マーベリックにちなんで名付けられた。

マーベリック郡はその全体で小都市圏を構成している。
歴史イーグルパスの兵士、1891年撮影
インディアン

マーベリック郡となった地域には前史時代に狩猟採集型の人類が居住しており、地域内の様々な場所でその工作物が見つかっている。その後はリパン・アパッチ族ショーニー族、コアウイルテク族などのインディアン部族が入ってきた[4]南北戦争の1861年3月20日にダンカン砦が放棄され、インディアンが地域を支配するようになった。アメリカ人やメキシコ系アメリカ人が多くの生命や資産を失うことになった。ダンカン砦は1868年に再度駐屯部隊が入った[5]。1871年初期、国境近くに住んでいた多くのブラック・セミノール・インディアンが斥候隊として組織化され、ダンカン砦に入った[6]。この地域で最後のインディアンによる襲撃は1877年のことだった。このときリパン・アパッチ族によって3人の商人が殺され、遺体を切断された。事件が起きたのはイーグルパスの8マイル (13 km) 北東であり、デッドマンズヒルと呼ばれるようになった[4]
探検

エル・カミノ・レアル、後のオールド・サンアントニオ道路は、東テキサスでリオ・グランデ川を渡り、この地域南部を横切っていた[7]。この道は当初1690年にアロンソ・デ・レオンが開いたものであり、初期スペイン人探検家や開拓者が使用したことでは、テキサス州の他の場所よりも頻度が高かったとされている[8]。1989年、テキサス州議会はこの道の開設300周年を記念して、オールド・サンアントニオ道路保存委員会を承認した[9][10]

1665年サルティーヨの市長フェルナンド・デ・アスキュエがインディアンを追ってこの地域に入った[11]。1675年、フェルナンド・デル・ボスクがヌエストラ・スラ・デ・グアダルーペの町からリオ・グランデ川を遡る遠征隊を率いてクエマド近くの地域を通過し、遠征隊に同行していたフランシスコ会聖職者がテキサスで初めてのミサを行ったとされている[12][13]

1688年、アロンソ・デ・レオンが、エル・カミノ・レアルを辿り、セントルイス砦に向かう途中でこの地域を通った[14]。1691年、スペイン領テキサスの初代知事ドミンゴ・テラン・デ・・ロス・リオスが遠征隊を率いてこの地域を通過した[15]。1718年、スペイン領テキサス知事マルティン・デ・アラルソンが地域を通過し、サンアントニオの町を造ることになった[16]。1720年、メキシコのコアウイラ州とテキサス州の知事デ・サンミゲル・デ・アグヤヨ侯爵が、山羊や、2,800頭の馬、6,400頭の羊を連れた遠征隊を催し、テキサスにおけるスペイン人の牧畜業の始まりとなった[17]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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