マーフリーズボロ
市
Murfreesboro
マーフリーズボロ中心街
愛称: ザ・ボロ
標語: 「より良い生活品質の創出」
ラザフォード郡内の位置
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}マーフリーズボロテネシー州内の位置
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度50分46秒 西経86度23分31秒 / 北緯35.84611度 西経86.39194度 / 35.84611; -86.39194
マーフリーズボロ(英: Murfreesboro)は、アメリカ合衆国テネシー州の都市。ラザフォード郡の郡庁所在地である。人口は15万2769人(2020年)で増加している。ナッシュビル都市圏に属しているが、56キロメートル離れているため、独自の都市圏を形成しており、「エッジシティ」と考えることができる。
ミドルテネシー州立大学があり、2009年の学部生数は22,299人、学生総数25,188人となっている[4]。
2006年、マーフリーズボロ市は雑誌「マネー」で、アメリカ合衆国の人口5万人以上の都市745都市のうち、住みたい場所ランキングの84位に位置付けられた[5][6]。 1811年、テネシー州議会がラザフォード郡の郡庁所在地を設立した。その町は当初、テネシー州の政治家ニュートン・キャノンに因んで「キャノンズボロ」と名付けられたが、間もなくアメリカ独立戦争の英雄ハーディ・マーフリー大佐に因んで「マーフリーズボロ」と改名された。マーフリーは著作家メアリー・ノアイユ・マーフリーの曾祖父にあたる。 テネシー州が西方に拡大するに連れて、それまでの州都ノックスビルは州の西端から移動するには遠すぎて重荷になることが明らかになり、1818年にマーフリーズボロが州都になった。しかし、1826年には州都がナッシュビルに移された[7]。 1862年12月31日、ストーンズリバーの戦い、又の名をマーフリーズボロの戦いが、マーフリーズボロ近くで、北軍カンバーランド軍と南軍テネシー軍との間で戦われた。この戦闘は南北戦争の中でも大きな戦闘になった。12月31日から1863年1月2日までに23,515人の死傷者が出た[8]。損失率の高さではこの戦争の中で最も流血の多い戦闘となった。 ケンタッキー州中部でのペリービルの戦い(1862年10月8日)の後に南軍が後退し、東テネシーを通ってから北西に転じてマーフリーズボロを守った。南軍ブラクストン・ブラッグ将軍配下の熟練した騎兵隊が北軍ローズクランズ将軍の軍隊に擾乱攻撃を掛けて成功し、その動きを止めて補給部隊を捕獲・破壊していたが、ローズクランズ軍に補給物資や援軍が到着することを完全に止めるまでには到らなかった。マーフリーズボロの戦いは損失が大きかったが戦術的には引き分けであり、現在は北軍の勝利と考えられている。戦闘が終わったとき、ブラッグ将軍は36マイル (58 km) 南のタラホーマまで撤退した。ローズクランズ将軍は6か月後の1863年6月に補給線が整うまで南軍を追撃しようとはしなかった。この戦闘の後、チャタヌーガからアトランタの戦いへと繋がり、ウィリアム・シャーマン将軍による海への進軍によって南軍にとっては東部戦線と西部戦線が分断されることになったので戦略的には重大な意味を持っていた。
歴史
南北戦争