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マーティ・フリードマン
マーティ・フリードマン(2009年3月)
基本情報
出生名マーティン・アダム・フリードマン
生誕 (1962-12-08) 1962年12月8日(61歳)
出身地 アメリカ合衆国・メリーランド州ローレル
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ロック[1]
ハードロック[1]
ヘヴィメタル[1]
フュージョン[1]
ニューエイジ[1]
職業
ギタリスト
作曲家
担当楽器
ギター
ボーカル
活動期間1982年 -
レーベル
avex trax
シャラプネル
プロスセティック(英語版)
ユニバーサル
EMI
共同作業者
メガデス
カコフォニー
ハワイ
公式サイトMarty Friedman Official Website
著名使用楽器
Jackson The KE1
マーティン・アダム・フリードマン(英: Martin Adam Friedman、1962年12月8日 - )は、アメリカのギタリスト、音楽評論家、タレント。
現在は日本に拠点を置き活動する。 メリーランド州ローレル(ワシントンD.C.近郊)出身で、アシュケナジム・ユダヤ人の家庭に生まれた。父親の仕事の都合で西ドイツなどを転々とする中[2]、米国に帰国して間もない14歳の時にクラスメイトと行ったKISSのコンサートに衝撃を受け、ギターを始める[3]。17歳の頃に住んでいたハワイではビーチに行くこともほとんどせず、部屋に籠もりひたすらギターの練習をしていた。丁度その頃日系の人たちが聞いていた日本の音楽に興味を持ち、特にその切っ掛けが八代亜紀であったこともあり演歌には強い影響を受ける。演歌のこぶしを自身のギター・テクニックに取り入れたりしたが、当時のバンド仲間からは白眼視されていたという。 1982年、ヴィクセン名義でEP1枚を発表した。また、コンピレーションアルバム『U.S.METAL VOL II』には1曲が収録されている。1983年にゲイリー・セント・ピアー(ヴィシャス・ルーモアズ
経歴
生い立ち、1980年代の活動
1987年、シュラプネル・レコーズに所属するジェイソン・ベッカーと「カコフォニー」を結成し、アルバム『スピード・メタル・シンフォニー』を発表する。1988年には初のソロ・アルバム『ドラゴンズ・キス』とカコフォニーの2枚目のアルバム『ゴー・オフ』を発表する。 1990年にメガデスに加入する。メガデスでは4枚目のアルバム『ラスト・イン・ピース』から8枚目のアルバム『リスク
メガデスへの加入
1990年代中盤より他のヘヴィメタル・バンドが台頭してきたため、メガデスのメンバー間でバンドの方向性に関する論争が発生する。この時、フリードマンは「ポップスならポップスのアルバム、ヘヴィメタルなら信じられないくらいヘヴィなアルバムを作りたい。中途半端なのは一番嫌だ」と主張した。しかし結果的に在籍時最後のアルバムとなった『リスク』に採用された曲は「ポップスでもヘヴィメタルでもない中途半端な曲」ばかりとなってしまい、「ヘヴィメタルの代表としてメガデスという怖い名前があるのに、何故そんな妥協をしなくちゃならない? とずっと主張し続けてたんだけど受け入れられなかった。だから辞めた」と語っている[3]。また「Breadline」のギター・ソロ差し替え事件[注釈 1]についてもフリードマンは後のインタビューで、脱退の決定的な原因ではないけれど理由のひとつ、としている[注釈 2]。
一方、メガデスのリーダーのデイヴ・ムステインは雑誌「BURRN!」のインタビューで「マーティはメガデスを日本のバンドのB'zみたいにしたがっていたんだよ」と述べ、原因はマーティにあるとしていた(ただし、後のインタビューでは、自分にも落ち度があったと述べている)。また、後に『ザ・システム・ハズ・フェイルド』収録時にフリードマンをメガデスに呼び戻そうともしていたが、フリードマンは日本での活動が多忙のため辞退した。アルバムには結果的にクリス・ポーランド(英語版)が参加することになった。 カコフォニー時代にライブで初来日したマーティは、日本に対してそれまで以上の興味を持つようになり、90年代の半ば頃からメガデスの世界ツアーの移動時間を利用して、通信教育で日本語の勉強を始める[4]。ある程度日本語を習得したことで、通訳なしでインタビューを受けることも多々あった。その後、アリゾナ州立大学の日本語弁論大会で2位を獲得[5]。現在は日本の雑誌やメディアのインタビューはすべて日本語で対応しており、対談などでは通訳を務めることもある。 2004年に、仕事も何も決まっていない状態で日本への移住を決める。保証人もいなかったため、最初の数か月は6畳のウィークリーマンションに住まざるを得なかったという。日本語の勉強になると割り切って、やりたくない仕事もやっていたが、間もなく友人の紹介で相川七瀬と知り合い、彼女のバックバンドにギタリストとして参加する。これをきっかけに日本でのミュージシャンとしての活動を開始する。 その後、東京都新宿区に完全移住した。2005年にはX JAPANのPATAやLUNA SEAの真矢と共に、相川七瀬のコンサートツアーに参加した。5月から放送開始となった番組『ヘビメタさん』にもレギュラー出演している。また鈴木亜美のギタリストとして念願の『NHK紅白歌合戦』出場の夢も実現した。 2006年4月より『ROCK FUJIYAMA』(テレビ東京系)にレギュラー出演する(2007年3月まで)。同年6月12日からは日本テレビの『歌スタ!!』に「ウタイビトハンター」として出演する。またこの年から4年連続『タモリ倶楽部』の年度末企画「空耳アワード」に出演し、2006年、2008年には逆空耳(日本語の歌が外国語に聞こえる)を2つずつ紹介した(2006年は2曲とも浜崎あゆみ、2008年はB'zとmihimaru GT)。さらに2006年から2008年まで鉄鋼業界の団体日本鉄鋼連盟の新卒採用PR
日本への移住
2007年、KOTOKOの7枚目のシングルで、OVA『マリア様がみてる』第3巻?第5巻のエンディングテーマ「きれいな旋律」の作曲とギター演奏を担当。
2008年3月1日に渋谷のNHKホールで開催された『平成19年度NHKのど自慢チャンピオン大会』では、オープニングでこの番組のテーマ曲をロック調にアレンジし、ソロで演奏した。またジェロのアルバム『COVERS』収録の「釜山港へ帰れ」に参加した。『2008年紅白歌合戦』では、石川さゆりの「天城越え」の伴奏者も務めた。その他、同年公開の映画『デトロイト・メタル・シティ』にジャック・イル・ダークのバンドのギタリストとして出演した。同じく2008年公開の映画『グーグーだって猫である』にも出演した。9月からは『ビッグコミック』誌上にて「邦楽の殿堂」連載を開始する(2008年9月10日号より)。
2009年 5月3日、テレビ朝日『題名のない音楽会』のゲストとして、井上道義指揮、オーケストラ・アンサンブル金沢との競演で、バッハ作曲『ブランデンブルク協奏曲』第3番の第3楽章を演奏した。
2009年10月14日に、テレビ朝日『ロンドンハーツ』の特別企画によって幕張メッセで開催された50TA(狩野英孝)の復活ライブにおいて、楽曲『ヘビーメタルステーション』のギタリストとして出演した。
2010年6月16日、Sound Horizonのシングル「イドへ至る森へ至るイド」に参加する。