マーティン・ルーサー・キング・ジュニア
[Wikipedia|▼Menu]

マーティン・ルーサー・キング・ジュニア
Martin Luther King Jr.
1964年のキング牧師
生誕マイケル・キング・ジュニア
(1929-01-15) 1929年1月15日
アメリカ合衆国
ジョージア州アトランタ
死没 (1968-04-04) 1968年4月4日(39歳没)
アメリカ合衆国
テネシー州メンフィス
死因暗殺
記念碑マーティン・ルーサー・キング・ジュニア記念碑(ワシントンD.C.)
国籍 アメリカ合衆国
別名MLK
出身校モアハウス大学
クローザー神学校
ボストン大学
職業牧師
団体南部キリスト教指導者会議 (SCLC)
著名な実績非暴力による差別撤廃推進活動
運動・動向非暴力のアフリカ系アメリカ人公民権運動
平和運動
宗教キリスト教バプテスト教会 プログレッシブ・ナショナル・バプテスト連盟)
配偶者コレッタ・スコット・キング
子供ヨランダ・キング
マーティン・ルーサー・キング3世
デクスター・スコット・キング
バーニス・キング
親マーティン・ルーサー・キング・シニア
アルバータ・ウィリアムズ・キング
受賞ノーベル平和賞(1964年)
大統領自由勲章(1977年、死後)
議会名誉黄金勲章(2004年、死後)
署名

テンプレートを表示

ノーベル賞受賞者
受賞年:1964年
受賞部門:ノーベル平和賞
受賞理由:アメリカ合衆国における人種偏見を終わらせるための非暴力抵抗運動

マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(英語: Martin Luther King Jr.、1929年1月15日 - 1968年4月4日)は、アメリカ合衆国プロテスタントバプテスト派牧師である。市民やメディアからキング牧師と呼ばれ、ガンジーの非暴力的抵抗の教えに共感し、アフリカ系アメリカ人公民権運動の穏健派指導者として非暴力差別抵抗活動を行った[1]

I Have a Dream(私には夢がある)」の一節で知られる有名な演説を行った人物。1964年ノーベル平和賞を受賞。1968年に暗殺された後、2004年議会名誉黄金勲章を受章。アメリカ国内における第二次世界大戦後も続いた人種差別(特にアフリカ系アメリカ人に対する差別)とその克服への闘いの歴史を語る上で、逆に非暴力運動に批判的だった急進派のマルコムXとともに特に重要な人物の一人である。
生い立ち
牧師になる前

1929年、ジョージア州アトランタバプテスト派牧師マイケル・ルーサー・キングの息子として生まれた。ミドルネームも含めて父と同じ名前を付けられたが、父マイケルは1935年にマーティンと改名し、息子も同様に改名したため「マーティン・ルーサー・キング・ジュニア」となった。宗教改革をはじめたマルティン・ルターから父親が命名した。父親は区別のため「マーティン・ルーサー・キング・シニア」と呼ばれる。

幼少の頃隣に白人の家族が住んでおりその家庭の同年男子2人と遊んでいたが、キングが6歳のある日、彼らの母親が「(黒人とは)二度と遊ばせません!」と宣言した。これが人生で初めての差別体験であった[2]1942年にはアトランタのブーカー・T・ワシントン高校に入学した。高校時代には弁論大会で優勝したが帰り道にバスの中で白人から席を譲れと強制され、激しく怒った。これが後のバス・ボイコットにつながっていく。

1944年にはモアハウス大学に入学し、法律家と聖職のどちらを選ぶかで迷ったものの、結局父と同じ聖職者の道を選ぶことにし、1947年には牧師の資格を取得、父親と同じくバプテスト派の牧師となった。1948年に卒業すると、ペンシルベニア州のクローザー神学校に入学してさらに3年間大学院生として学んだ。この時にマハトマ・ガンディーの思想を知り、深く傾倒してのちの活動に非常に大きな影響をもたらした。その後1955年ボストン大学神学部で博士号を取得した。

ボストン大学に在学中、ニューイングランド音楽院の学生であったコレッタ・スコット(Coretta Scott)と知り合って結婚した。コレッタは4人の子供を育て[3]、夫が亡くなった後もその遺志を継ぎ「非暴力社会変革センター」を設立。映画やTV、ビデオ・ゲームなどの暴力シーンを無くす運動を精力的に行ったり非暴力運動、人種差別撤廃、貧困層救済の運動を指導して世界を行脚した。彼女は2005年8月16日に脳卒中で倒れて半身不随となり、2006年1月31日に78歳で死去した。

なおキングがボストン大学在学中に飲食店に入った際、キングが黒人である事を理由に白人の店員が注文を取りに来なかったが、同店の所在地がこの様な行為を州法で禁じているアメリカ北部のマサチューセッツ州、ボストンであったため、店員は人種差別として即逮捕となった。南部出身で人種差別を受けることが多かったキングは、むしろこの出来事に驚いたという。
公民権運動
人種差別男性有色人種専用の水飲み場で水を飲む黒人男性(1950年代

1863年1月1日にエイブラハム・リンカーン大統領によって行われた奴隷解放宣言によりアメリカ合衆国での奴隷制は廃止され、主としてアフリカ系アメリカ人は奴隷のくびきからは脱していた。しかし奴隷制度からの解放は直ちに人種差別の撤廃を意味するものではなく、特にレコンストラクション(南部再建)期が1870年代に終了するとともに南部諸州は次々と人種差別主義立法を通過させ、その後も人種によっての差別的な取り扱いは容認されたままであった。南部の多くの州ではジム・クロウ法と呼ばれる黒人が一般公共施設の利用を禁止制限した法律が制定されており、これに基づいて、特に学校トイレプールなどの公共施設やバスなどの公共交通等において白人非白人等の区別に基づき異なる施設を用いることは容認されたままであった。

この様な状況は、アメリカが「自由で平等な」、「民主主義橋頭堡」であると自称として参戦した[注 1]第二次世界大戦後も続いており、むしろ多くの州では法令上もかかる差別を義務付けていたことすらあった。
モンゴメリー・バス・ボイコット事件

キングは1954年9月にアラバマ州モンゴメリーのデクスター・アベニュー・バプテスト教会の牧師に就任した。キングは1年ほど平穏に牧師を務めていたが、1955年12月にモンゴメリーで発生したローザ・パークス逮捕事件が彼の運命に大きな変動をもたらした。この事件は、黒人であるローザ・パークスがバス内で白人に席を譲らなかったために逮捕されたもので、キングはこの事件に激しく抗議してモンゴメリー・バス・ボイコット事件運動を計画し、運動の先頭に立った。この運動は382日間に及んで続けられ、黒人たちは自家用車などでネットワークを組んで抵抗を続けた。この運動の結果、1956年11月に連邦最高裁判所からバス車内人種分離法違憲判決(法律上における人種差別容認に対する違憲判決)を勝ち取り、抗議運動は成功を収めた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:99 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef