マーティン・ディーゴ
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.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の)はディーゴ、第二姓(母方の)はリアノスです。この記事の項目名には以下のような表記揺れがあります。

マルティン・ディーゴ

マーティン・ディーゴ
Martin Dihigo基本情報
国籍 キューバ
出身地マタンサス州シドラ
生年月日 (1905-05-25) 1905年5月25日
没年月日 (1971-05-20) 1971年5月20日(65歳没)
身長
体重6' 3" =約190.5 cm
190 lb =約86.2 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手外野手二塁手三塁手
プロ入り1922年
初出場NLB / 1923年
最終出場NLB / 1945年 
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


キューバン・スターズ (イースト) (1923 - 1927)

ホームステッド・グレイズ (1928)

ヒルデール・デイジーズ (1929)

キューバン・スターズ(イースト) (1930)

ヒルデール・デイジーズ (1930 - 1931)

ボルチモア・ブラックソックス (1931)

ニューヨーク・キューバンズ (1935 - 1936)

ベラクルス・イーグルス (1937 - 1939)

ベラクルス・ブルース (1940)

トレオン・コットンディーラーズ (1941 - 1943)

ヌエバラレド・オウルズ (1944)

ニューヨーク・キューバンズ (1945)

トレオン・コットンディーラーズ (1946)

サンルイスポトシ・トゥネロス (1947)

ベラクルス・ブルース (1947)

ベラクルス・イーグルス (1950)

監督歴


ベラクルス・ブルース (1940)

ニューヨーク・キューバンズ (1945)

ベラクルス・イーグルス (1950, 1956 - 1957)

アメリカ野球殿堂 殿堂表彰者
選出年1977年
選出方法ニグロリーグ特別委員会選出
この表についてこの表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

マーティン・マグダレノ・ディーゴ・リアノス(Martin Magdaleno Dihigo Llanos , 1905年5月25日 - 1971年5月20日)は、キューバマタンサス州シドラ出身のプロ野球選手投手内野手外野手)。右投げ右打ち。愛称は"El Maestro"(エル・マエストロ)。
経歴

1922-1923シーズンに16歳でキューバ国内リーグ"リーガ・クバーナ・デ・ベイスボル"のレオネス・デル・ハバナでプロ野球選手としてのキャリアを始めた。

1923年からアメリカ合衆国ニグロリーグのキューバ人選抜チームであるキューバン・スターズ (イースト)に所属し、当初は主に一塁手として出場していた。

ニグロリーグでは1926年にイースタン・カラードリーグの本塁打王のタイトルを獲得した。ニグロナショナルリーグのニューヨーク・キューバンズに所属した1935年にも2度目の本塁打王のタイトルを獲得するなど、打撃面でも目を見張る成績を残した。1936年を最後にニグロリーグを離れた。

キューバリーグでは1927-1928シーズン、1935-1936シーズン、1936-1937シーズン、1941-1942シーズンと計4度のMVPを獲得した。

メキシカンリーグでは1938年に打者として打率.387、また投手としては18勝2敗・防御率0.90の成績を残している。資料によれば[1]、メキシカンリーグ史上最初のノーヒットノーランを達成(1937年9月16日)したのがディーゴだと言われている。また同年、当時の大投手だったサチェル・ペイジと対決した試合があり、その試合では前半にペイジと投手戦を演じたあと、9回に自ら決勝の本塁打を放ってチームを勝利に導くという大活躍をやってのけた。[2]

その後は1945年にニグロリーグのニューヨーク・キューバンズの選手兼任監督として1年だけプレーして、イーストウェスト・オールスターゲーム(ニグロリーグのオールスターゲーム)にも10年ぶりに選ばれた。

1947年にキューバリーグでのキャリアを終え、メキシカンリーグで選手兼任監督としてプレーした。

1950年にキューバリーグで1試合だけ「現役復帰」して2を投げた。通算107勝76敗は革命前のキューバリーグでは最も多い勝利数である。また、通算121完投もリーグ最多。

1951年にキューバ野球殿堂入りを果たした[3]

フィデル・カストロを早くから支持し、キューバ革命の成功後は亡くなるまでスポーツ省の大臣を務めていた。

1971年5月20日に死去。65歳没。

1977年ニグロリーグ特別委員会による選考でアメリカ野球殿堂入りを果たした。この他、メキシコ、ベネズエラドミニカ共和国の野球殿堂にも名前を刻んでいる。
プレースタイル

捕手以外の全ての守備位置を経験した。アメリカ野球殿堂入りした名一塁手であるジョニー・マイズ1943年にドミニカ共和国のウィンターリーグで一緒にプレーしたディーゴについて「すべての守備位置をこなすし、走塁も良く、監督もし、左右どちらでも打つことができた」[4]。また、元ニグロリーガーのテッド・ページは「外野からの送球はロベルト・クレメンテよりも優れていた」というコメントを残している[1]。アメリカ野球殿堂入りした元ニグロリーガーのバック・レナードロサンゼルス・ドジャースアル・キャンパニスゼネラルマネージャーは今までの人生で見た最高のプレイヤーとしてディーゴを挙げ[5]、高く評価していた。ユーモアがあり、気立ての良いことで知られ、キューバの国民的英雄だった。
詳細情報
獲得タイトル・記録
NLB


本塁打王:2回 (1926年、1935年)

オールスターゲーム出場:2回 (1935年、1945年) 


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