マーチャーシュ1世_(ハンガリー王)
[Wikipedia|▼Menu]

この項目では、ハンガリー語圏の慣習に従い、名前を姓名順で表記していますが、インド・ヨーロッパ語族風にマーチャーシュ・フニャディと表記することもあります。(Template:ハンガリー人の姓名

マーチャーシュ1世
I. Matyas
ハンガリー王 / ボヘミア王
ブダペスト英雄広場にある銅像
在位1458年 - 1490年4月6日
戴冠式1464年4月29日
別号正義王

全名Hunyadi Matyas
フニャディ・マーチャーシュ
出生1443年2月23日
ハンガリー王国コロジュヴァール
死去 (1490-04-06) 1490年4月6日(47歳没)
神聖ローマ帝国
オーストリア大公国ウィーン
埋葬 ハンガリー王国セーケシュフェヘールヴァール聖堂
配偶者カテジナ・ス・ポジェブラト
 ベアトリーチェ・ダラゴーナ
家名フニャディ家(英語版)
王朝フニャディ朝
父親フニャディ・ヤーノシュ
母親シラージ・エルジェーベト(英語版)
宗教ローマ・カトリック教会

テンプレートを表示

マーチャーシュ1世(ハンガリー語: I. Matyas, 1443年2月23日 - 1490年4月6日)は、ハンガリー(在位:1458年 - 1490年[1])。ボヘミア対立王)でもあった(在位:1469年 - 1490年)。「正義王」の異名がある。フニャディ・マーチャーシュ(ハンガリー語: Hunyadi Matyas)、マティアス・コルヴィヌス(: Matthias Corvinus Huniades)とも呼ばれる。コルヴィヌスあるいはコルウィヌスは「(corvus コルウス)の人」を意味するラテン語名で、フニャディ家(英語版)の烏(カラス)の紋章に由来し、それはヴァイダフニャド城の別名に由来する。1479年にはオーストリア大公国の支配権も得る。

王軍を常備軍として設置し、中央集権化を進めて、中世ハンガリーの最盛期を築いた。ルネサンス文化を奨励したことでも知られる。ハンガリーの1000フォリント紙幣には、マーチャーシュの肖像が印刷されている。目次

1 生涯

1.1 治世

1.2 結婚

1.3 ルネサンス文化の奨励

1.4 マーチャーシュ教会

1.5 マーチャーシュ1世にまつわる伝説


2 略年表

3 脚注

4 関連項目

5 外部リンク

生涯
治世

ハンガリー王国の摂政フニャディ・ヤーノシュには長子ラースローがあり、ヤーノシュと共に従軍して1456年ベオグラードの戦勝にも功績があった。しかしヤーノシュの死後、ハンガリー貴族の内紛に巻き込まれてラースローは処刑されてしまう(エルケル・フェレンツが作曲したオペラに、この事件を題材にした『フニャディ・ラースロー』がある)。その結果、次子のマーチャーシュに大貴族と対立する中小貴族の支持が集まり、ハンガリー王に選出された。

オスマン帝国と対抗するワラキアヴラド3世(ヴラド・ドラキュラ)とは同盟関係にあったが、弟のラドゥと国内離反貴族に追われたヴラドがトランシルヴァニアに逃げ込むと、オスマン帝国に内通したとしてヴラドを捕らえ、幽閉する。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:45 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef