マージェリー・ケンプ
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「マージョリー・ケンプ(Marjorie Kemp)」とは別人です。

マージェリー・ケンプ(1373年頃生?1438年以降没)はイングランドの神秘家であり、口述による『マージェリー・ケンプの書』は英語による初の自伝とされる。この本は家庭内での試練、ヨーロッパ各地の聖なる場所から聖地イェルサレムに及ぶ広範な巡礼、神秘的回心を年代順に記録する。聖公会では崇敬されているが、カトリック教会聖人とされたことはない。

Margery Kempe
誕生1373年頃
ビショップス・リン、ノーフォーク州、イングランド
死没1438年以降
職業キリスト教神秘家
言語英語
国籍イングランド
代表作『マージェリー・ケンプの書』
ウィキポータル 文学
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背景と家族

この人物はイングランド、ノーフォーク州ビショップス・リン(現キングス・リン)で1373年頃マージェリー・ブルナムとして生まれた。父親ジョン・ブルナムはリンの商人であり、市長、議員も務めた。ブルナム家で初めて記録に登場したのは祖父ラルフ・ド・ブルナム(1320年リンのRed Register )である。彼は1340年までにリンの議会に参加していた [1] 。マージェリーの親戚、おそらく兄弟であるロバート・ブルナムは1402年と1417年にリンの議員となった[2]
生涯

マージェリーが受けたと思われる正規の教育については記録がない。成人後は司祭が英語の「宗教的な書物」を読み聞かせ、自力で読めなくとも、様々なテクストを暗記していたようである[2] 。また、「主の祈り」「アヴェ・マリア」、十戒に加えて様々な美徳、悪徳、信仰上の決まりについて教えを受けたと考えられる[2] 。20歳頃の1394年、マージェリーはジョン・ケンプと結婚したが、彼は後に都市の役人となる。2人の間には少なくとも14人の子どもがいた。ダンツィヒからの現存する書簡で長男がジョンという名前であり、1431年にリンを訪問した理由がわかる[3]

ケンプは正統的なカトリックであり、中世の他の神秘家同様、自分は「キリストとの大いなる親密さ」に招かれたと信じていた。彼女の場合は、成人後の度重なる幻視や他の経験がその原因である[2] 。最初の子どもが生まれた後、マージェリーは約8ヶ月にわたり危機を経験した[4] 。これはおそらく、産後うつだろう。病気の間、マージェリーは無数の悪魔が自分を攻撃し、「信仰、家族、友人を捨てる」よう命じるのを見、自殺まで勧めたと述べた[2]。また、イエス・キリストが男性の姿で現れ、「娘よ、なぜわたしを見捨てたのか、わたしがそなたを見捨てたことは一度もないのに」と問いかける幻視も見た[2] 。マージェリーは顕現したイエス、マリア、その他聖なる人々と話をし、イエスの誕生から磔刑までに自分が積極的に関わる幻視を見たと断言する[4] 。これらの幻視と幻覚は彼女の身体感覚に影響し、音が聞こえたり、知らない匂いを嗅がせたりした。また、天上の調べに泣きたくなり、貞潔な生活を送りたくなったとする。Bealによると、「マージェリーは神への熱烈な献身を示す別の方法を見つけた。貞潔な婚姻のために祈り、1日に2~3回告解に行き、しばしば日々教会で朝早くから祈り、粗毛の下着を着て、所属する共同体が自分の極端な信仰形態にどのような否定的反応をしても、すすんで苦しんだ」[2]。 マージェリーはまた、キリストに慈悲と赦しを請いながらよく泣くことで周りの人々に知られていた。

ケンプの幻視で、キリストは彼女の罪を赦すと保証した。「彼はいくつかを命じた。自分を彼女の愛と呼ぶこと、粗毛の下着を着るのをやめること、肉食をやめること、毎週日曜日に聖体拝領をすること、ロザリオの祈りは6時までにすること、沈思の内に自分に語りかけること・・・」。 また、次の約束もした。「敵に対して勝利させ、すべての書記たちに答えさせ、また[彼が]共にあって決して見捨てず、助け、絶対に離れない 」[2]。実際、マージェリーは幻視を見ると人前で大きな声で嘆き悲しみ、むせび泣き、身悶えし、聖職者も俗人も恐れ、当惑した。ある時、彼女は聖職者と都市の役人に収監され、レイプの危険に脅かされた[4]。しかし、マージェリーは性的暴行を受けたと記してはいない[2]。最終的に1420年代にマージェリーは書物、現在『マージェリー・ケンプの書』として知られる本を口述し、自らの幻視、神秘的宗教的体験、ならびに「好色への誘惑、旅、異端としての審問」を描いた[5]。この本は英語による初の自伝だと広く考えられている[5]

マージェリー・ケンプは何度も異端の嫌疑をかけられたが、有罪を宣告されたことはなかった。ロラード派の非難を受けた際、これを否定した自分の能力を誇らしげに語っている[6]。考えられる逮捕の理由には説教(女性は禁止されていた)、既婚者でも白衣を着用したこと(修道女の模倣)、煉獄の死者の魂のために祈り、まるで聖人のとりなしのように苦しんでいる人を告げられるのは自分だと堅く信じていたことがある。 ケンプはまた、教会の許可なく説教したとも非難された。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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