マーサ・レイン・コリンズ
[Wikipedia|▼Menu]

マーサ・レイン・コリンズ
演説をするマーサ・レイン・コリンズ、1986年11月

第56代 ケンタッキー州知事
任期
1983年12月13日 ? 1987年12月8日
副知事スティーブ・ベッシャー
前任者ジョン・Y・ブラウン・ジュニア
後任者ウォレス・ウィルキンソン
第48代 ケンタッキー州副知事
任期
1979年12月11日 ? 1983年12月13日
知事ジョン・Y・ブラウン・ジュニア
前任者セルマ・ストーバル
後任者スティーブ・ベッシャー

個人情報
生誕マーサ・レイン・コリンズ
Martha Layne Hall
(1936-12-07) 1936年12月7日(87歳)
ケンタッキー州バグダッド
政党民主党
配偶者ビル・コリンズ
出身校ケンタッキー大学
専業教師
宗教バプテスト

マーサ・レイン・コリンズ(: Martha Layne Collins、旧姓ホール、1936年12月7日 - )は、アメリカ合衆国実業家政治家である。1983年から1987年まで第56代ケンタッキー州知事を務めた。知事になる前の4年間はジョン・Y・ブラウン・ジュニア知事の下で第48代副知事を務めた。2014年時点でコリンズはケンタッキー州唯一の女性知事経験者である。知事に選ばれたことで、当時のアメリカ合衆国の民主党女性では最高位になった。1984年アメリカ合衆国大統領選挙ではウォルター・モンデール候補の副大統領候補になる可能性があったが、モンデールはやはり女性のジェラルディン・フェラーロを候補に選んだ。

コリンズはケンタッキー大学を卒業した後、夫が歯科の学位を取っている間に学校の教師をしていた。政治に興味を持つようになり、1971年のウェンデル・H・フォードの州知事選挙と、1972年のウォルター・"ディー"・ハドルストンのアメリカ合衆国上院議員選挙の両方で働いた。1975年、州民主党の秘書官に選ばれ、またケンタッキー州控訴裁判所の事務官に選ばれた。この事務官を続ける間に憲法の修正で州の司法体系が再構成され、控訴裁判所はケンタッキー州最高裁判所になった。コリンズは改名された最高裁の事務官を続け、裁判所の新しい役割について市民を教育した。

1979年、コリンズはジョン・Y・ブラウン・ジュニア知事の下で第48代副知事に選出された。ブラウンは州外に出ることが多く、その4年間の任期中に500日以上もコリンズに知事代行を務めさせた。1983年、コリンズは共和党ジム・バニングを破って女性として初のケンタッキー州知事になった。その政権では教育と経済開発という2つの大きな課題があった。1984年議会で教育予算を増加させられなかった後で、翌年の特別会期前に大衆認識推進運動を行った。修正プログラムがこの会期で成立した。1986年、経済的インセンティブを用いて、トヨタ自動車組み立て工場をジョージタウンに誘致することに成功した。そのインセンティブについて法的な異議申し立てがあり、それが成立すればその工場と関連する経済的恩恵がなくなることになるはずだったが、ケンタッキー州最高裁判所によって棄却された。州はコリンズの指導下で記録破りの経済成長を遂げた。

コリンズの在任中はケンタッキー州憲法の規定により、州知事は連続して再選を求められなかった。知事の4年間任期が終わると幾つかの大学で教壇に立った。1990年から1996年、スプリングフィールドに近いセントキャサリン・カレッジの学長を務めた。1993年、夫のビル・コリンズ博士が斡旋収賄で有罪となり、政界に戻りたいというコリンズの希望を損なうことになった。その有罪が確定する前は、アメリカ合衆国上院議員選挙に出馬するか、ビル・クリントン大統領の閣僚に就任するという噂もあった。2012年時点でジョージタウン・カレッジに住む研究者である。
初期の経歴

マーサ・レイン・コリンズ、旧姓ホールは1936年12月7日に、ケンタッキー州バグダッドで生まれた[1]。父はエバレット・ホール、母はメアリー(旧姓テイラー)であり、その一人っ子だった[2]。マーサが6年生のとき、一家はシェルビービルに移転し、ホール・テイラー葬儀場を開いた[2]。マーサは学校でも土地のバプテスト教会でも多くの課外活動に関わった[2]。両親は地元の政治で活動的であり、何人かの民主党候補者の選挙運動で働き、マーサもしばしばそれに協力して、封筒ののり付け、パンフレットの戸別配布を行った[3]

マーサはシェルビービル高校に入学し、良き生徒であり、チアリーダーにもなった[4]。美人コンテストに出ることも多く、1954年にはシェルビー郡タバコ祭りクイーンに選ばれた[4]。高校を卒業するとセントチャールズにある女子大学のリンデンウッド・カレッジに入学した[4][5]。リンデンウッドで1年間を過ごした後、レキシントンのケンタッキー大学に転籍した[5]。その学生時代に女子学生クラブのキー・オメガ、バプテスト学生連盟、家計経済クラブなど多くのクラブで活動し、寮長を務め、ハウスプレジデント委員会の副会長も務めた[4]

1957年、マーサはシェルビー郡のバプテスト・キャンプに参加しているときにビリー・ルイス・コリンズと出逢った[2]。コリンズは、レキシントンから約13マイル (21 km) 離れたジョージタウンにあるジョージタウン・カレッジの学生だった。コリンズとマーサは学位取得を進めながらデートを重ねた[2]。マーサは1959年に家政学で理学士を取得した[5]。その年前半にケンタッキー・ダービー・フェスティバルのクイーンに選ばれ、短期間だがモデルになることも考えた[2]。マーサとコリンズは卒業すると直ぐに結婚した[2]。ビリー・コリンズがルイビル大学で歯科の学位を取得する間、マーサはルイビル市にあるセネカ高校とフェアデール高校で教師をした[6]。ルイビルに居る間にスティーブとマーラという2人の子供が生まれた[5]

1966年、コリンズ家はバーセイルズに移転し、そこでマーサはウッドフォード郡ジュニア高校で教えた[3]。夫婦は青年会議所や民主党若いカップルクラブなど幾つかの市民組織で活動するようになった[4]。このクラブを通じて1967年にはヘンリー・ウォードの州知事選挙を手伝ったが、ウォードは落選した[4]
初期の政歴ウェンデル・H・フォード、コリンズは1971年の州知事選挙でフォードのために働いた

1971年までにコリンズは青年会議所婦人部の会長となっており、民主党州上院議員ウォルター・ディー・ハドルストンの目に留まったのもこの組織を通じてだった[4]。ハドルストンはコリンズに、ウェンデル・H・フォードの知事選挙では第6選挙区の共同議長を務めるよう求めた[4]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:109 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef