マーサ・タブラム
[Wikipedia|▼Menu]
マーサ・タブラムの葬儀写真

マーサ・タブラム[1]: Martha Tabram、旧姓: ホワイト <: White>、1849年5月10日 - 1888年8月7日)は、イギリス売春婦であり、ロンドンイーストエンドにあるホワイトチャペル地区で多発していた殺人事件のうちの1件で殺害された。依然として正体が判明していない切り裂きジャックの最初の犠牲者である可能性がある。ただし、歴史家の間で切り裂きジャックの犠牲者として広く認められている5名 (いわゆる「カノニカル・ファイブ」 <英: canonical five>) には含まれていない。
生涯

マーサはロンドンのサザークで生まれた。父は倉庫業者のチャールズ・サミュエル・ホワイト (英: Charles Samuel White)、母はエリザベス・ドーセット (英: Elisabeth Dowsett) である。マーサは5人の兄弟の末っ子だった。兄弟は生まれた順にヘンリー・ホワイト (英: Henry White)、スティーブン・ホワイト (英: Stephen White)、エスター・ホワイト (英: Esther White)、メアリー・アン・ホワイト (英: Mary Ann White) である。

1865年5月に両親が別居し、その6ヵ月後に父が突然に死亡した。その後、マーサは家具倉庫の梱包業者の職長であるヘンリー・サミュエル・タブラム (英: Henry Samuel Tabram) と一緒に暮らし始め、1869年12月25日に結婚した。1871年に夫婦はマーサの子供時代の生家の近くの家に転居した。夫婦は2人の息子を儲けた。フレデリック・ジョン・タブラム (英: Frederick John Tabram、1871年2月生) とチャールズ・ヘンリー・タブラム (英: Charles Henry Tabram、1872年12月生) である。

結婚生活はマーサの飲酒癖により苦難続きだった。マーサの酒好きはアルコール依存症の発作を起こすほどだった。1875年に夫のヘンリーがマーサの元を去った。約3年間、ヘンリーはマーサに1週間おきに12シリングの手当を与えていたが、別の男と暮らしていると聞いてからは2シリング6ペンスに引き下げた[2]

マーサは1876年頃から大工のヘンリー・ターナー (英: Henry Turner) と一緒に暮らし、その収入に頼って生活した。その生活はタブラムが死ぬ3週間前まで続いた。ターナーとの関係も、マーサの飲酒癖と時折の外泊により平穏なものではなかった。1881年の夜間調査では、マーサとその息子たちはトーマス・ストリート[3]にあるホワイトチャペル連合救貧院の臨時収容室の夜間の被収容者として登録されていた[4]。1888年までにターナーは常勤雇用の仕事を失った。ホワイトチャペルのコマーシャル・ロードを外れた場所にあるスター・プレイス4番地で4ヶ月間寄宿している間、2人は装身具などの小物を通りで売って収入を得ていた。7月初旬の頃、2人は家賃未払いのまま突然にその地を去り、7月中旬頃を最後に別居した[5]。マーサはスピタルフィールズ(英語版)のジョージ・ストリート19番地にあるコモン・ロッジングハウス(英語版) (生活困窮者向けの安価な共同住宅) に転居した[6]
殺害

殺害される前日である1888年8月6日の夜、マーサはジョージ・ヤード・ビルディングスの近くにあるエンジェル・アンド・クラウン (英: the Angel and Crown) というパブで酒を飲んでいた。「パーリー・ポール」(英: Pearly Poll) という名で知られた売春婦のメアリー・アン・コネリー (英: Mary Ann Connelly) や2人の兵士と一緒だった。4人は2組に分かれ、午後11時45分頃にパブを出て、売春婦1人につき客1人という組み合わせで別れた。マーサとその客はジョージ・ヤードへ向かった[7]。ジョージ・ヤードは南北方向へ伸びる狭い小道で、ウェントワース・ストリートとホワイトチャペル・ハイ・ストリート(英語版)に繋がっていた。マーサと客はホワイト・ハート・インの隣の屋根付きのアーチ道を通ってホワイト・ハイ・ストリート側からジョージ・ヤードへ入った。ジョージ・ヤード・ビルディングスはジョージ・ヤードの東側にあり、その近くにトインビー・ホール(英語版)の裏の北の突き当たりがあった。この建物はかつては紡績工場だったが、安価な共同住宅に転用された[8]。今日では、この場所はガンソープ・ストリートと呼ばれており、ジョージ・ヤード・ビルディングスの跡地にはアパートが建っている。コネリーとその客は並行するエンジェル・アレーに向かった。

深夜、ジョージ・ヤード・ビルディングスの住人であるヒューイット (英: Hewitt) 夫人はMurder! (日: 人殺し!) という叫び声で目を覚ました。しかし、この地域では家庭内暴力はありふれたことであり、ヒューイット夫人はその声を無視した[8]。午前2時、同じく住人のジョセフ・マホニー (英: Joseph Mahoney) とその妻エリザベス (英: Elizabeth) がジョージ・ヤード・ビルディングスに帰ったとき、階段には誰もいなかった。同時刻、巡回中のトーマス・バレット (英: Thomas Barrett) 巡査は近くをうろついていたグレナディア (近衛歩兵) に尋問した。兵士は友人を待っていると返答した[9]。午前3時30分、住人のアルバート・ジョージ・クロー (英: Albert George Crow) が辻馬車の御者の仕事を終えて、夜勤から帰宅していたとき、1階から階段を上ったところの踊り場でマーサの遺体が横たわっていることに気付いた。踊り場が薄暗かったため、クローはマーサを眠っている浮浪者と勘違いして立ち去った。午前5時直前、船渠の労働者であるジョン・ソーンダーズ・リーヴズ (英: John Saunders Reeves) が出勤しようと階段を下りていたときに、初めてマーサが死亡していることが認識された[10]マーサ・タブラムの死体安置所での写真。身長は160センチメートルで、髪は黒色だった[11]

リーヴズがバレット巡査を連れてくると、バレットは遺体の調査のためにティモシー・ロバート・キリーン (英: Timothy Robert Killeen) 医師に知らせた。午前5時30分頃にキリーンが到着し、マーサが死亡してから3時間程度経過したと見積もった[12]。殺人者はマーサを39回刺しており、喉に9箇所、左のに5箇所、右の肺に2箇所、心臓に1箇所、肝臓に5箇所、脾臓に2箇所、に6箇所の刺し傷があった。下腹部や生殖器も負傷していた。遺体は仰向けになっており、衣服が腰まで上がって下半身がむき出しになっていた。このことは遺体は性交のための姿勢になっていたことを示唆している。しかし、キリーンは性交を行った証拠を見出すことができなかった[12]。住人たちやキリーン医師の証言は、マーサは午前2時から午前3時の間に殺害されたことを示している。その間、住人たちは怪しいものは何も見聞きしなかった。

ロンドン警視庁の警部補で、H地区ホワイトチャペル担当のエドマンド・リード(英語版) (英: Edmund Reid) が捜査の指揮を執った。8月7日、リードはバレット巡査をロンドン塔へ向かわせた。前述の通り、バレットは怪しい兵士が通りに居たのを目撃していた。リードはバレットがその兵士の身元を突き止めることを期待した。しかし、バレットは問題の兵士を識別できなかった。8月8日、殺人事件のあった夜に休暇をとっていた兵士たち全員をロンドン塔に集め、面通しのために行列を作らせた。このとき、バレットは1人の男を選び出した。その男で正しいのか再吟味させると、バレットは別の男を選び出した。最初の男は立ち去ることを許可された。バレットは自分の心変わりについて、ジョージ・ヤードで見た男は勲章を持っていなかったが、最初に選んだ男は勲章を持っていたためと説明した。バレットが2回目に選んだジョン・リアリー (英: John Leary) は、殺人のあった夜は仲間のプライベット・ロー (英: Private Law) と一緒にブリクストンで酒を飲んでいたと主張した。リアリーによると、閉店時間にローと別れ、その後に散歩に出かけたという。それから、午前4時30分頃にストランドで偶然にローと出会い、それから2人でビリングスゲート(英語版)で再び飲みに行き、その後にロンドン塔に戻ったと語った。リアリーと隔離した状態でローに尋問すると、ローのその夜の出来事の説明はリアリーの説明と正確に一致した。2人の説明が一致していて尤もらしく、バレットの身元確認が不確実であることから、リアリーとローは捜査の対象から外れた[13]

ロンドン塔の別の兵士のコーポラル・ベンジャミン (英: Corporal Benjamin) は休暇を取らずに不在だったが、こちらも捜査の対象から外された。キングストン・アポン・テムズ(英語版)に住む父に会いに行っていたことが判明したためである[14]

コネリーは警察に対して全く協力的でなく、しばらくの間、ドルリー・レーンの近隣にいとこと一緒に身を隠し[15]、8月9日まで出てこなかった[16]。コネリーは8月10日にロンドン塔で行われた面通しには現れなかったが、13日に日程を変えると参加した[17]。コネリーは殺人のあった夜に客だった人物を識別できず、その夜にあった兵士たちは白いキャップバンドを身につけていたと主張した。そのようなバンドを身につけているのはコールドストリームガーズだけで、ロンドン塔のグレナディアガーズは身につけていなかった。15日、コネリーはウェリントン・バラックス(英語版)へ連れていかれ、再度面通しを行った。コネリーは2人の兵士を選び出したが、2人には確実なアリバイがあった[18]。1人は妻と一緒に家に居たし、もう1人はウェリントン・バラックスに居た[19]

8月14日、マーサの身元が疎遠になっていた夫により正式に確認された。死亡時、マーサは黒いボンネットと黒い長めのジャケット、暗緑色のスカート、茶色のペティコートストッキングを身につけており、履いていたブーツはひどく磨り減っていた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:29 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef