マーサ・グラハム
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この項目では、舞踏家について説明しています。かつての長寿記録保持者については「マーサ・グラハム (1844?-1959)」をご覧ください。

マーサ・グレアム
Martha Graham
演技するマーサ・グレアム
ユーサフ・カーシュ撮影、1948年
誕生日 (1894-05-11) 1894年5月11日
出生地アメリカ合衆国ペンシルバニア州アレギニー(現ピッツバーグ)
死没年1991年4月1日(1991-04-01)(96歳)
死没地アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク
国籍アメリカ合衆国
配偶者エリック・ホーキンス(1948年結婚?1954年離婚)
運動・動向モダンダンス
芸術分野ダンス、振付
受賞ケネディ・センター名誉賞 (1979年)
大統領自由勲章 (1976年)
アメリカ国民芸術勲章 (1985年)
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マーサ・グレアム(: Martha Graham 1894年5月11日 - 1991年4月1日)は、アメリカ合衆国舞踏家振付師であり、モダンダンスの開拓者の一人である。マーサ・グラハムと表記されることも多い。
略歴

ペンシルベニア州アレギニーに生まれ、14歳の時カリフォルニア州に引越した[1]。1910年代にルース・サン・デニが踊るのを見てダンスに興味を持つ事になった。22歳(1916年)になって、デニショーン・ダンサー養成所(英語版)に入学しプロへの道を目指した。 テッド・ショーンとマーサ・グラハム1921年 1922年舞台雑誌『シャドウランド(英語版)』のニコラス・マーレー(英語版)撮影のポートレート

1925年にニューヨーク州ロチェスターのイーストマン音楽院のダンス講師になった。その後、彼女はデニショーンで知り合った音楽の師で恋人でもある伴奏者のルイス・ホースト(英語版)のサポートをもとに独立。1926年に自身のカンパニー「マーサ・グレアム・ダンスカンパニー」を設立した。収縮と開放をテーマにした事で広く知られる彼女の独特の身のこなしのスタイル と表現は当時のモダンアートを反映している。角南壮一(英語版)撮影1929年、マーサ・グラハムの「異端者」カール・ヴァン・ヴェクテン撮影 マーサ・グレアムとバートラム・ロス(英語版)1961年

1930年代に入るとグレアムはベニトン大学(英語版)やニューヨーク大学で指導するかたわら、1927年よりダンス部門の長に就任していた同ファーストネームをもつアメリカ人ダンサー: マーサ・ヒル(英語版)の下で師事しながら共に活動し、本格的にニューヨークを活動拠点をうつした。1951年、グレアムはまた名門 ジュリアード音楽院におけるダンス部門のメンバーにも就任し、ここでもグレアムはマーサ・ヒルにディレクターをまかせ、自ら助教授となりながらモダンアートの研究にいそしんだ。

1936年に、グレアムは彼女の特徴的な作品である“Chronicle”(年代記)を発表した。大きなインパクトを与え、まさに新時代の到来を予感させる意欲作であるといわれた。この作品は、深刻であった当時の世相・話題をモチーフとして一般の観客によりドラマ性をもって演劇をアピールするものであった。この頃のニューヨークは 暗黒の木曜日(1929年)や, それに続いた世界大恐慌(1930年?) およびスペイン内戦(1936年?)等の世情があり、これらの具体的な素材にふれながら当時の鬱蒼とした世相や孤独感を、静かで暗い舞台装置・セットや衣装で生々しく表現したものであった。

1927年に、マーサ・グレアム・ダンスカンパニー(英語版)が創立された。彼女の教え子の中にはバテシバ・ド・ロチルド(英語版)がいた。ロチルドがイスラエルに移り、1965年にバテシバ・ダンスカンパニー(英語版)を設立した際、グレアムはディレクターに就任した。

1948年に、15歳年下のダンサーのエリック・ホーキンズと結婚した。

彼女にとって最も大きなスケールの作品 クリュタイムネーストラー は1958年に制作され、エジプト生まれの作曲家ハリム・エル=ダブ(英語版)によって音楽が付けられた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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