マーケットメイク
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マーケットメイクとは、金融商品市場において、マーケットメイカーが常時売り買い両方の気配(価格と上限個数)を示し、投資家の注文に約定を保証することである。アメリカ私募証券の店頭市場が1960年ごろまでに機関化し、マーケットメイクの原型となった[1]。株式のマーケットメイクはボルカー・ルールの例外となる[2]。また、公債のマーケットメイカーをプライマリー・ディーラーと呼ぶ[3]外国為替市場では銀行間取引市場参加者がマーケットメイクを担う。
概要

マーケットメイク方式(マーケットメイカー制)とは、証券取引所から資格を得た値付け業者が常時「売り気配」と「買い気配」を提示し、顧客が最良気配を出している業者と相対取引を行う仕組みをいう。株式を取引するときは証券会社が、為替通貨を取引するときは銀行間取引市場参加者が、それぞれ値付け業者(マーケットメイカー)となる。マーケットメイカー制は、金融商品の流動化を目的とし、マーケットメイカーを介して全ての注文をもれなく執行する。

投資家同士が市場内で直接売買するオークション方式とは対照的である。オークション方式は機動的に取引が出来、また一物一価の法則が自動的に働いて値が決定される。しかし取引の量が少ない場合は値がつきづらい。例えば、あまりに取引量が少なく買い手だけがいる場合や売り手だけがいる状態が1日中続くような場合、値をつけることが出来ない。

ナスダック(NASDAQ)市場は株式についてマーケットメイク方式を全面的に採用している。ビッグバンからはロンドン証券取引所で主流となった。日本では、ジャスダック(JASDAQ)の一部の銘柄で採用されていた。東京金融取引所外国為替取引について採用している。シカゴ商品取引所米国債等の取引に採用している。
ナスダックのピンクな歴史

世界恐慌でジャック・モルガン(ジョン・モルガンの息子)らの関係した内部者取引をペコラ委員会が追及した。ウォール街は合衆国史上初めて規制されることになった。1933年証券法が証券発行時のディスクロージャーを義務づけた。1934年証券取引所法も成立した。証券取引委員会が設置され、ナイ委員会の世論圧力を受けながら、恐慌へ至るまでに投信を利用した巨大コンツェルンが電力産業を中心に構築された事実を暴いた。この投信は主に店頭取引でばらまかれていた。すでに制定した二つの法律は株式の店頭取引を規制していなかったので、1934年証券取引所法が1938年に改正された(マロニー法)。これにもとづいて1939年、全米証券業協会(NASD)が組成された。今日までアメリカ唯一の「登録証券業協会」である。彼ら証券会社は店頭取引をするために専ら「ピンクシート」という日刊の気配表を利用した。NQB(National Quotation Bureau)発行のピンクシートは前日最終までの情報誌であったので、実際の売買では証券業者がマーケット・メーカーに連絡して条件を確認する必要があった[4]。マーケットメーカーは株式発行会社を出し抜いてピンクシートへの銘柄掲載を申請してしまうような権力までもっていた。いかにウォール街を規制しても、あふれくる社債・株式の行き場を閉ざすことはできなかったのである。
ユーロクリア依存症

しかしアメリカのマーケットメーカーが全米の資金をにわかに多国籍企業へ集中させると、アメリカン証券取引所で不正事件が起こったので、感づいたジョン・F・ケネディがマーケットメーカーに大義なしと思い切って行動した。彼が大統領となった1961年から、証券取引委員会が店頭取引を精査した。結果は1963年に公表された。いわゆるコーエン報告書(Report of Special Study of Securities Markets)である[5]。マーケットメーカーまたは機関投資家の動態を洗い上げ描写する同報告書につづき、パットマン報告書が追い討ちをかけ、そこへ議会の公聴会も加勢した。JPモルガンがベルギーへ逃げてユーロクリアをつくり、そこへ世界中の機関投資家の決済を依存させた。ロバート・ケネディが殺されてから、インスティネット(Instinet)やナスダックが生まれ、ミューチュアル・ファンドの搾取行為が追及された。そこで機関投資家はニューヨーク証券取引所から一斉疎開した。人工的な流動性の危機へ至り、1975年やむなく1934年証券取引所法に全米市場システム(National Market System)が盛り込まれた。制度上マーケットメーカーは互いに競争するが、ユーロクリアのできてからでは意味をなさなかった。ブロック取引は機械処理されず、マーケットメーカーにお伺いを立てる必要があった。オイルショックで貸し出す現金をひねり出すため機関投資家は証券化に励んだ。1980年代、彼らはレバレッジド・バイアウトを利用してシャドー・バンキング・システムを拡張していった。ブラックマンデーのとき、マーケットメーカーの多くは、個人投資家の小口注文をまとめた証券会社の電話注文に出ることなく、他の機関投資家との取引に応じていた[6]
マーケット・ガバナンス

インスティネットは取引所ではないと考えられ、1975年まで証券取引委員会から規制が提案されなかった[7]。1987年、インスティネットがロイターの子会社となった。競争にさらされていた証券取引所から訴訟を提起されていた私設取引システムに対し、やっと1989年4月に証券取引委員会が、取引所でも証券会社でもない新しい取引システムとして規制する方針をうちだした。国際決済銀行が1990年ごろに提出した見解によると、銀行間取引市場が他の金融市場と融合しているという結論であった。シャドー・バンキング・システムのグローバル化は、彼らが地球規模で企業統治へ干渉することを可能にした。

1994年5月、ヴァンダービルト大学のクリスティ教授とオハイオ州立大学のシュルツ教授が[8]、「なぜナスダックのマーケットメーカーは奇数の呼び値を避けるのか(Why do NASDAQ Market Makers Avoid Odd‐Eighth Quotes?)」と題する論文を発表した。この論文は大反響を呼んだ。投資家と証券会社は、マーケットメーカーが談合したせいで損害を被ったとして、全米各地で訴訟を提起した。司法省と証券取引委員会も調査に乗り出した。クリスティ、シュルツ両教授が第二の論文を発表し、マイクロソフトシスコ・システムズといった銘柄で奇数表示の気配が現れ、結果的に最良気配のスプレッドが50%近くも縮小した。債券やオプション取引の専門業者などの、「株式を取引するナスダック市場とは関係が無い」NASD会員も改革圧力をかけた。11月、NASDはラドマン元上院議員(Warren Rudman)を委員長とする特別委員会を設置した。この委員会は1995年9月に報告書を提出し、独占疑惑そのものを否定しながらも運営の有り方を改めることを提言した。NASDは提言を全面的に受け入れ、11月あらたに自主規制会社を設立した(NASD-R)。新会社のCEOにはメアリー・シャピロ(Mary Schapiro)が就任した。[9]
オーダー・ハンドリング・ルール

1997年6月、再び機構改革が行われた。具体的には、NASD-Rとナスダック市場会社それぞれの理事会を縮小し、合理化のため、両社を統合するNASD理事会へ実権を集中させたのであった。オーダー・ハンドリング・ルールは、投資家を保護するため、NASDAQが同年に導入したマーケットメイカーに対する規制である。下の3点が中心となる。
公衆気配発信可能でない私設取引システムに顧客向けより良い価格を提示してはならない(気配ルール)
[10]

顧客の注文が自社の気配より有利な場合は自社の気配として提示する義務がある[11]

自社の気配と顧客の指値が同じ値段の場合は顧客の注文を優先する義務がある(マニングルール)。

常に気配が提示させると、(値段にこだわらなければ)売れない、買えないというリスクがなくなる(流動化)。ただし、「気配」より優先するべき「指値注文」があっても、マーケットメイカーの気配は改善されない。このため、自分の買い指値より低い値段がついていても、自分の買い注文は約定していないことがある[12]。導入前は株価のスプレッド(マーケットメイカーの提示する買い気配と売り気配の差)が広く、それがそっくり投資家の負担、すなわちマーケットメイカーの利益となっていた。オーダー・ハンドリング・ルールは投資家の取引コストを劇的に減少させ、デイトレードなど新しい形態の取引の発展を可能にした。
代替取引システム規制

準マーケットメーカーともいうべき私設取引システムには、1998年12月から特に代替取引システム規制(Regulation ATS)が適用された。代替取引システム(ATS)とは、取引所と実質的に同じ機能を果していながら、取引参加者に幅広い監督をおよぼさない事業をさす。


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