マーク_I_戦車
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マーク I 戦車ソンムの戦いに展開したマークI(1916年9月25日
敵兵の攻撃を防ぐための切妻状の構造物と進路変更用の尾輪を装備している。
基礎データ
全長9.9 m
全幅

雄型:4.19m雌型:4.36m
重量

雄型:28t雌型:27t
乗員数8名
装甲・武装
装甲6-12mm
主武装

オチキス 6ポンド(57mm)砲×2(雄型。他に、副武装としてオチキス .303(7.7mm)軽機関銃×3)ヴィッカース .303(7.7mm)水冷式重機関銃×4(雌型。他に、副武装としてオチキス .303(7.7mm)軽機関銃×1)
機動力
速度5.95km/h
エンジンデイムラー ナイト スリーブバルブ 16,000cc 水冷直列6気筒ガソリンエンジン
105 hp
行動距離23.6マイル
出力重量比約3.8 hp/t
データの出典『世界の「戦車」がよくわかる本』
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マーク I 戦車(マーク 1 せんしゃ、: Mark I tank)は、イギリス第一次世界大戦中に開発し、世界で初めて実戦で使用された戦車
概要

西部戦線における塹壕機関銃の圧倒的優位を打破するために開発された。その形状から菱形戦車(rhomboidal tank)とも呼ばれる。

イギリス海軍の主導により開発され、1915年12月3日に走行試験に成功、1916年2月に制式採用され量産化が決定して「Mark I」の正式名称が与えられた。

1916年9月15日ソンムの戦いにおける第3次攻勢にて初めて戦闘に投入されたが、機械的信頼性の低さや乗員の居住性・操縦性が劣悪であるなどの設計上の問題や、砲弾孔に落下して破損するなど運用上の問題があり、戦果は限定的であった。

後に改良を加えたマークII・III、IVなどが開発され、各国でも戦車が研究・開発されるようになった。

英語で戦車を表すタンク(tank)は、マークTに水槽(tank)という暗号名が使われたことに由来する。
開発史
前史

第一次世界大戦最中の西部戦線において塹壕戦が始まり戦線は膠着状態に陥った。塹壕と塹壕の間には鉄条網が張られ、機関銃・迫撃砲・大砲などが配置された。歩兵が塹壕を出て突撃しても、敵陣にたどり着く前に機関銃の的となるだけであった。詳細は「塹壕」を参照

この状況を打開するため、各国では新しい戦術や兵器の考案が始められた。

その中でイギリス陸軍のサー・アーネスト・ダンロップ・スウィントン少佐(Sir Ernest Dunlop Swinton、1868年 - 1951年。1916年に中佐に昇進。最終階級は少将)[1]は、(スウィントン自身によると、H・G・ウェルズの小説『陸の甲鉄艦(The Land Ironclads)』[1]から着想を得て)、アメリカのホルト社(現キャタピラー社)が実用化に成功した無限軌道式トラクター(元は1908年にイギリスのホーンズビー社で開発された物だが、どこも関心を示さず、アメリカのホルト社に設計が売却された)をヒントに、これに装甲を施した戦闘室を搭載した戦闘車輌を着想した[2](スウィントンの著書「目撃者」によると、最初は1914年10月19日の朝に、戦車を作るというアイディアを突然思いついたとのこと)。このアイディアは陸軍では却下されてしまう[3]が、海軍が関心を持ち、1915年2月、ウィンストン・チャーチルにより「陸上軍艦委員会」(委員長:サー・ユースタス・テニソン=ダインコート海軍造船局長)が設立され、超壕兵器「陸上軍艦(Landship)」の開発が秘密裏に始まった[2]。陸上軍艦委員会の活動は、敵国は勿論のこと、身内である戦争省キッチナー、海軍本部、財務省など、計画の障害となる勢力からも、隠されていた。

なお、新兵器「戦車」の本流とはならなかったが、「陸上軍艦(ランド・シップ)」の初期のアイディアとして、陸上軍艦委員会のメンバーである、海軍航空隊創設者マレー・セター大尉は、ブラマー・ジョセフ・ディプロックの「ペドレール(Pedrail)」方式を推し、同じく、海軍航空隊装甲車部門の指揮官であるトーマス・ジェラルド・ヘザリントンは、「ビッグ・ホイール」方式を提案していた。しかし、ヘザリントン案は、モックアップの制作途上で破棄された。

[2] - へザリントンの「ビッグ・ホイール」の設計案。車輪の直径が15 ftもあった。

試作・試験リトル・ウィリービッグ・ウィリー(マザー)

陸上軍艦の本命の試験車輌は、1915年9月に完成し、開発担当者の名前から「トリットン・マシン」と呼ばれた[2]。だが、この試験車輌は軍が要求した超壕課題こそクリアしたものの、所定の段差を越えることができず、また足回りのトラブルも多かった[4]。そこで、トリットン・マシンの主に足回りを改良すべく、民生部品の流用を見直し、部品の専用設計を行い、製作されたのが、1915年12月に完成した「リトル・ウィリー」である[4]。だが、リトル・ウィリー自体は塹壕や不整地を走破する能力が低く、兵器として実用に耐える物ではなかったことから、履帯が車体側面全体を回る形の菱形戦車の開発が進められる[4]。詳細は「リトル・ウィリー」を参照

防諜のため、菱形戦車の試作車輌には、1915年11月4日に「water carrier 水運搬車」(略すと「WC」(便所)という不穏当な名称になってしまう)というコードネームが名付けられたが、1915年12月24日に名称の変更が決定され、さまざまな秘匿名が検討されたが、最終的に「tank タンク」(≒水槽)が選ばれ、表向きにはメソポタミアの植民地向けに貯水槽(タンク)を製造していることにされたが、この植民地を失ったため、偽(架空)の契約の顧客としてロシア帝国が選ばれた。

完成した菱形戦車の試作車輌「ビッグ・ウィリー」は、1916年2月2日、ソールズベリー侯の邸宅にて、デモンストレーションを行い、丘、小川、鉄条網、塹壕といった課題をクリアした[5]

邸宅には、デビッド・ロイド・ジョージ(軍需大臣)、アーサー・バルフォア(外務大臣)、ウィリアム・ロバートソン(イギリス陸軍将校)など、政府や軍の重鎮が大勢集まった。ホレイショ・ハーバート・キッチナー(軍司令官)は戦車開発に反対していたものの参加した。ロイド・ジョージは非常に強い印象を受け、「センチピード(=ムカデ)などと呼ばれる醜いけだものを見たとき、私はただただ驚き圧倒された」と語っている。なお、海軍主導で開発されたので、海軍式の「HMLS センチピード(国王陛下の陸上艦 センチピード)」が正式な名称である。

デモンストレーションは成功をおさめ、ビッグ・ウィリーの量産化が決定、制式名称を「マークI」とし[6]、この試作車輌は全ての戦車の原点として「マザー(Mother)」と呼ばれることとなる[6]。そして、40輌(すぐに100輌へ増加)の生産が決まったが[6]、これら全ての車輌にも海軍式に個別の名称が与えられた。
実戦投入

マークIのデビュー戦は、1916年9月15日ソンムの戦いにおける第3次攻勢となった[7]。詳細は「ソンムの戦い」を参照

三個戦車中隊の計60輌のマークIが投入を予定していたが、輸送時のトラブルや移動中の故障から脱落する車輌が相次ぎ、用意されたのは49両、稼働できたのは18両だけだった。また、前進を開始するとエンジントラブルや砲弾孔に落ちて破損するなどの問題が発生し、従来の作戦通り歩兵を先導して敵陣地に突撃できたのはわずか5輌だけだった。だが、有効な対抗兵器を持たない前線のドイツ軍兵士は、鉄条網を超えて進んでくる謎の新兵器にパニックに陥った[8]。この日の戦いで、イギリス軍は目標としていたフレール一帯の丘陵地帯の占領に成功する[8]。それでも、長大な戦線からすれば、投入した車輌の数の少なさから効果は一部に留まってしまい、何より戦車の信頼性の低さが問題となった[8]。だが、戦車という兵器の研究・開発は各国で進められることになる[8]
オールドベリー・トランスミッション・トライアル

イギリス軍はマークI系戦車の変速機をより扱いやすいものとすべく、当時の連合国各国の自動車メーカーや自動車技師達に改良案を募り、1917年3月にオールドベリー変速機試験(Oldbury transmission trials)が実施された。試験に参加したのは下記の6つの改良案であった[9]

マーク II 戦車(ドイツ語版)、ブリティッシュ・ウェスティングハウス(英国)のガス・エレクトリック方式


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