マーク・ルーイン
1960年
プロフィール
リングネーム"マニアック" マーク・ルーイン
"マッド" マーク・ルーイン
ザ・パープル・ヘイズ
ニックネーム毒蛇
身長188cm
体重118kg(全盛時)
誕生日 (1937-03-16) 1937年3月16日(86歳)
出身地 アメリカ合衆国
ニューヨーク州
エリー郡バッファロー
トレーナーダニー・マクシェイン
デビュー1953年
引退1998年
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マーク・ルーイン(Mark Lewin、1937年3月16日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。ニューヨーク州バッファロー出身。
日本での異名は毒蛇[1]。極太の腕で相手を絞め上げる得意技のスリーパー・ホールドは「アナコンダ殺法」とも呼ばれた[1]。 地元バッファローのプロモーターであるエド・ドン・ジョージとプロレスラーのダニー・マクシェインのトレーニングを受け、1953年に16歳でデビュー[2]。ルーイン兄弟(ドン・ルーイン、テッド・ルーイン)の末弟として売り出され、1956年3月にはメリーランドにてドンとのコンビでレイ・スティーブンス&ドン・ファーゴからアメリカン・タッグ王座を奪取[3]。ジョージアでは1957年2月8日にインターナショナル・タッグ王座も獲得した[4]。 その後、ニューヨークのキャピトル・レスリング・コーポレーション(現在のWWEの前身団体)にてドン・カーティスのタッグパートナーを務め、1958年7月にディック・ザ・ブルーザー&ハンス・シュミットを破り、ノースイースト版のNWA・USタッグ王座(後のWWWF・USタッグ王座)の初代チャンピオン・チームとなる[5]。9月にグラハム兄弟(ジェリー&エディ・グラハム)に敗れるが12月に奪還、同王座には2度に渡って戴冠した[5]。同地区には1960年代初頭まで参戦し、1962年にはバディ・ロジャースのNWA世界ヘビー級王座に再三挑戦している[6]。 以降もドン・カーティスと組み、1963年には南部のフロリダ地区で1月24日にザ・カンガルーズ(アル・コステロ&ロイ・ヘファーナン)、11月21日にジ・アサシンズ(トム・レネスト&ジョディ・ハミルトン)を破り、同地区認定のNWA世界タッグ王座にも2度戴冠している[7]。フロリダではボブ・オートン&キラー・カール・コックス、オートン&グレート・マレンコ、スカル・マーフィー&ブルート・バーナードなどのチームとも抗争した[8][9]。 カーティスとのタッグチーム解消後はサンフランシスコ地区を経てオーストラリア(ジム・バーネット主宰のワールド・チャンピオンシップ・レスリング)に遠征、1966年7月1日にドミニク・デヌーチと組んでラリー・ヘニング&ハーリー・レイスから豪州版のIWA世界タッグ王座を奪取[10]。同月9日にはメルボルンにてトール・タナカを破りIWA世界ヘビー級王座も獲得している[11]。帰国後の10月28日にはロサンゼルスのオリンピック・オーディトリアムにてルー・テーズに勝利、WWA世界ヘビー級王者となった[12]。12月10日にはペドロ・モラレスとのコンビでWWA世界タッグ王座にも戴冠、二冠王となっている[13]。 1967年に韓国のソウルでキム・イルに敗れWWA世界ヘビー級王座を失うが[12]、その後も北米と南半球を股にかけて活躍。ロサンゼルスでは、新設されたアメリカス・ヘビー級王座をマイク・デビアスやフレッド・ブラッシーと争った[14]。オーストラリアでは1967年10月13日、シドニーでキング・カーティス・イヤウケアを破り、IWA世界ヘビー級王座を再び獲得[11]。同世界タッグ王座も再三獲得しており、1971年は3月にキラー・コワルスキーと組んでジ・アウトローズ(ダスティ・ローデス&ディック・マードック)から、6月にはイヤウケアをパートナーにタイガー・ジェット・シン&ミスター・フジから、それぞれ奪取している[10]。 1970年代初頭はカナダのバンクーバー地区にも進出、1970年2月9日にムーンドッグ・ロニー・メインを破り、太平洋岸ヘビー級王座の初代王者となる[15]。1971年11月29日にはスティーブン・リトル・ベアと組んでジン・キニスキー&ボブ・ブラウンからカナディアン・タッグ王座を奪取した[16]。
来歴