マーク・トウェイン
ペンネームマーク・トウェイン
誕生サミュエル・ラングホーン・クレメンズ
(1835-11-30) 1835年11月30日
ミズーリ州フロリダ
マーク・トウェイン(Mark Twain、本名:サミュエル・ラングホーン・クレメンズ(Samuel Langhorne Clemens)、1835年11月30日 - 1910年4月21日)は、アメリカ合衆国の著作家、小説家。ミズーリ州出身。『トム・ソーヤーの冒険』の著者として知られ、数多くの小説やエッセーを発表、世界中で講演活動を行うなど、当時最も人気のある著名人の一人であった。ユーモアと社会風刺に富んだ作品で知られる。
ウィリアム・フォークナーは、トウェインが「最初の真のアメリカ人作家であり、我々の全ては彼の相続人である」と記した。アーネスト・ヘミングウェイは『アフリカの緑の丘』において、「あらゆる現代アメリカ文学は、マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィン』と呼ばれる一冊に由来する」と述べた。 印刷工時代の新聞投稿文のペンネームは「トマス・ジェファソン・スノッドグラス」。 「マーク・トウェイン」は、川を蒸気船が航行する際の測深手の水先案内人への合図“by the mark, twain”(蒸気船が座礁せず安全に通航できる限界の浅さで2ファゾム、約3.6m。日本語では「水深二尋」と訳されている)から採った。1863年2月3日、ネバダ州バージニア市のTerritorial Enterprise紙から使用している。 ミズーリ州フロリダ
ペンネーム
来歴
彼が4歳の時、一家は出生地から50km程離れたミシシッピ川沿いの町、ミズーリ州ハンニバルに転居した。ここは当時舟運で栄え、ニューオーリンズやセントルイスからは人が日夜途絶えることがなかった。後にこの町とそこの住人が、トウェインの最も有名な作品(『トム・ソーヤーの冒険』、『ハックルベリー・フィンの冒険』など)の登場人物と場所のモデルとなった。
クレメンズ家は、テネシー州にいた頃から奴隷を所有していたが、1820年のミズーリ妥協のために、奴隷を彼らの新居に伴うことができた。トウェインにとって女中のジェニーは第二の母親であり、奴隷の子供たちは遊び友達であった。ハックルベリー・フィンと逃亡奴隷のジムの描写は、こうした人間関係に由来している[2]。
父は多くの負債を残して1847年に死去した。長男のオーリオンはすぐに新聞の出版を始め、サミュエルはその手伝いに2年間にわたって従事している。オーリオンの新聞で最も活発な論争の的になった記事のいくつかは、弟のサミュエルの手によるものであるが、オーリオンが町を離れているときに書かれたものであった。
サミュエルは蒸気船で働いた後、17歳の時に印刷工として働くため、故郷を後にセントルイスへ移った。1857年に蒸気船の水先人見習、1858年には水先人の資格を取得した。1858年6月、セントルイスとニューオーリンズを35日で往復する蒸気船ペンシルヴァニア号(英語版)がボイラー爆発の事故を起こした際、この船に乗船する予定であったマーク・トウェインは急遽他の船での仕事に就いており助かったが、この事故に事務員として乗船していた弟のヘンリーが巻き込まれ、ヘンリーは死亡した[3]。
南北戦争が始まると舟運の激減のために水先人を失業し、アメリカ連合国軍に志願。少尉として従軍するも、『マーク・トウェイン自伝』(勝浦吉雄訳、筑摩書房)によれば、疲労による戦闘不能で除隊(1940年1月下院では脱走とされる)。1861年には、兄のオーリオンがネバダ準州(現・ネバダ州)の政務長官に任命されたため、それについてネバダに移る。その後さらにサンフランシスコに移り、新聞記者としていくつかの新聞社で働いている。この時期特派員としてハワイにも滞在しており、新聞記事を集めた『ハワイ通信』(1866年)を出している。
1869年には、新聞に長期連載したヨーロッパ旅行体験記が、"The Innocents Abroad"(『無邪気な外遊記』、『地中海遊覧記』)で出版され評判となる。以後も長編旅行記をいくつか出版した。
1870年、オリヴィア・L・クレメンズと結婚。一男三女をもうけるが、次女以外は父親に先立っている。長男ラングドンは1歳10か月で、長女スージーは24歳で、三女ジーンは29歳で死亡している。妻オリヴィアは1904年に58歳で亡くなった。
ハートフォード (コネチカット州)に居住し多くの作品を発表するようになった。1873年に出版した『金ぴか時代』は彼の出世作となるが、彼の名を不動にしたのは1876年に出版された『トム・ソーヤーの冒険』である。これで大ベストセラー作家となったトウェインは非常に豊かな資産家となるが、一方で浪費や新発明への見境のない投資、株の投機などで次第にその富は減少していった。ただし、この時期においても1885年の『ハックルベリー・フィンの冒険』などのようにベストセラーをコンスタントに発表しており、人気が衰えたわけでは決してなかった。トウェインのオートクローム(1908年)
1894年には投資の失敗などにより、トウェインは破産する。このとき、スタンダード・オイルの副社長だったヘンリー・H・ロジャーズ(『あしながおじさん』のモデルと言われている)の助力を得て、資産の再編成を行った。この借金返済の一環として、1895年には世界中で講演活動を行い、1897年に出版した『赤道に沿って』の印税も全額返済に充てることで、トウェインは借金を完済し再び資産家となった。1897年には新聞に「トウェインが死んだ」という誤報を流され、「私が死んだという報道は誇張である」(The report of my death was an exaggeration.)と発表した。1898年6月15日にはアメリカ反帝国主義連盟のメンバーとなり、合衆国のフィリピン併合に反対した。1906年にはアメリカを訪れたショーレム・アレイヘムと会っている。1910年、死去する。この年はハレー彗星が75年ぶりに地球に到来した年であり、本人が予見した通り、ハレー彗星と共にこの世を去っていった。
なお『あしながおじさん』で知られる作家ジーン・ウェブスターは、トウェインの姪の娘に当たる。