マーク・コッツェイ
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マーク・コッツェイ
Mark Kotsayオークランド・アスレチックス 監督 #7
サンディエゴ・パドレスでの現役時代
(2013年3月10日)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地カリフォルニア州ウィッティア
生年月日 (1975-12-02) 1975年12月2日(48歳)
身長
体重6' 0" =約182.9 cm
220 lb =約99.8 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション外野手一塁手
プロ入り1996年 MLBドラフト1巡目
初出場1997年7月11日
最終出場2013年9月29日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

選手歴


サンタフェ高等学校(英語版)

カリフォルニア州立大学フラトン校

フロリダ・マーリンズ (1997 - 2000)

サンディエゴ・パドレス (2001 - 2003)

オークランド・アスレチックス (2004 - 2007)

アトランタ・ブレーブス (2008)

ボストン・レッドソックス (2008 - 2009)

シカゴ・ホワイトソックス (2009 - 2010)

ミルウォーキー・ブルワーズ (2011)

サンディエゴ・パドレス (2012 - 2013)

コーチ歴


サンディエゴ・パドレス (2015)

オークランド・アスレチックス (2016 - )

国際大会
代表チーム アメリカ合衆国
五輪1996年
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オリンピック
男子 野球
1996野球

マーク・スティーブン・コッツェイ(Mark Steven Kotsay, 1975年12月2日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州ウィッティア出身の元プロ野球選手外野手)、野球指導者。左投左打。現在は、MLBオークランド・アスレチックスの監督を務める。
経歴
プロ入り前

サンタフェ高等学校(英語版)卒業時にどこからもドラフト指名されず、1994年カリフォルニア州立大学フラトン校へ進学した。1995年には打率.422・21本塁打・90打点を記録し、ゴールデンスパイク賞を受賞。カレッジ・ワールドシリーズでは打率.563・3本塁打・10打点を挙げMVPに選出されるなど大学球界の一躍スターとなった[1]
プロ入りとマーリンズ時代

1996年6月のMLBドラフト1巡目(全体9位)でフロリダ・マーリンズから指名を受け、その後アトランタオリンピック野球アメリカ合衆国代表に選出され「2番・左翼手」として常時出場してチーム2位の打率.303を記録し、銅メダル獲得に貢献[1]。オリンピック終了後の8月15日に契約[2]

アマチュア時代の金属バットから木製バットへうまく順応し、1997年は前年より1つ階級が上のAA級ポートランド・シードッグスで迎え打率.307・17本塁打・61打点を記録し、デボン・ホワイトの代役として7月11日のフィラデルフィア・フィリーズ戦でメジャーデビューを果たした[1]。ホワイトが復帰したため7月28日にマイナーに降格[1]。その後はメジャーに昇格はなくメジャー1年目を終えた。

メジャー2年目となる1998年には、マーリンズでレギュラーに定着。2000年までの3年間、目立った成績では無かったものの、安定した活躍を見せた。
パドレス時代

2001年3月28日にマット・クレメントらとの2対3のトレードで、シーザー・クレスポ(英語版)と共にサンディエゴ・パドレスへ移籍した。
アスレチックス時代オークランド・アスレチックス時代
(2007年7月28日)

2003年11月26日にラモン・ヘルナンデステレンス・ロングとのトレードで、オークランド・アスレチックスへ移籍した[2]

アスレチックス移籍1年目の2004年は、先頭バッターに定着し、自己ベストのシーズンになった。自身初の打率.300を記録したほか、自己最高の190安打を記録。

2005年は開幕当初こそ、不動のリードオフマンとして不振に陥っていたチームを牽引。しかし、後半戦からは背筋痛に苦しみ、尻すぼみとなってしまった。結局、打率こそ.280と前年より3分ほど落ちたものの、チーム内の最高打率であり、対左腕の打率は.324をマーク。そして、前年と同じ本数の本塁打に加え、自己最高の82打点をマークした。また、7月9日には2008年まで3年間総額2900万ドルで契約延長した[3]

2006年は、持病の腰痛の影響で二桁本塁打が3年連続でストップした。それでもオールスター後は欠場を繰り返したものの、打撃好調で50試合で打率.326をマーク。特に7月22日から8月18日の間は、16試合連続安打をマークした。この年まで指揮を執った監督のケン・モッカとの関係は悪く、故障続きで使いにくい選手だったが、アメリカンリーグチャンピオンシップシリーズではビリー・ビーンボビー・キールティを薦めた際に、モッカはコッツェイを起用したものの結果を残せず、監督解任の要因となった[4]

2007年は開幕前に持病の腰痛が悪化し、手術のために長期離脱を余儀なくされた。6月に戦線復帰したものの、8月中旬に痛みが再発し、この年2回目の故障者リスト入りとなった。結局、故障の影響でシーズンの大半を棒に振り、レギュラーに定着した1998年以来、最少の出場数となる56試合でしかプレーできなかった。
ブレーブス時代アトランタ・ブレーブス時代


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