マーガレット・ワイズ・ブラウン
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マーガレット・ワイズ・ブラウン
Margaret Wise Brown
ペンネームTimothy Hay
Golden MacDonald
Juniper Sage
Kaintuck Brown
誕生1910年5月23日
ニューヨーク市 ブルックリン
死没1952年11月13日(1952-11-13)(42歳)
フランス ニース
職業作家、編集者
国籍アメリカ人
ジャンル児童文学
代表作Goodnight Moon(おやすみなさい おつきさま)
The Runaway Bunny(ぼくにげちゃうよ)
The Color Kittens(いろいろこねこ)
パートナーMichael Strange
ウィキポータル 文学
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マーガレット・ワイズ・ブラウン(Margaret Wise Brown (1910年5月23日 - 1952年11月13日) はアメリカの児童文学作家で児童書の編集者。ブラウンは、絵を引き立てるシンプルで美しい文を絵本画家に提供し、クレメント・ハード(Clement Hurd)挿絵によるおやすみなさいおつきさま(Goodnight Moon)や ぼくにげちゃうよ(The Runaway Bunny)など、多くの絵本作品を残した。瀬田貞二はブラウンを「絵本の座付き作者」と評している[1]
生涯

ニューヨーク ブルックリンのグリーンポイント界隈に、3人きょうだいの真ん中として生まれる[2]。1923年、両親の家はコネチカットのカンタベリにあったがブラウンはウッドストックにある寄宿学校に入る。1926年、マサチューセッツのウェルズリーにあるダナホールスクールに入り、スポーツで活躍する。1928年に卒業すると、ブラウンはヴァージニア州ロアノーク郡にあるホリンズ・カレッジに進学する。

1932年、英語で文学士(B.A.)を取得してホリンズ・カレッジを卒業し[2]、教師となり美術を学ぶ。

ニューヨーク市のバンク・ストリート・エクスペリメンタル・スクール(バンク・ストリート教育大学)のプログラムに参加した[3]。ここに設けられていたセンターで子どものための本を書き始める。彼女の初めの本、When the Wind Blewは1937年にハーパー&ブラザーズ社から出版された。

バンク・ストリート教育大学の創設者 ルーシー・ミッチェルは、Here and Now(ここで今)の文学のほうが伝統的なおとぎ話やマザー・グースよりも子どもたちに与えるべきものを多く持つと考えてHere and Now Story Book(1921)を著し、1983年には父兄の一人、ウィリアム・R・スコットを説いて「ここで今」の文学を実現する出版社、ウィリアム・R・スコット社の創設に至る[3]

ブラウンはウィリアム・R・スコット社で初代編集者として多くの作家や画家による「子どものための現代の絵本」を出版していく傍ら[3]、自分でもHere and Now(ここで今)の物語や、のちにはNoisy Book(おとのほん)シリーズを創作している。人気を博した作品、ガース・ウィリアムズ挿絵による The Little Fur Family(日本語題『ちっちゃなほわほわかぞく』)は1946年に出版された。同1946年には、ゴールデン・マクドナルドというペンネームでThe Little Island ( 日本語題「ちいさな島」、レナ-ド・ワイスガ-ド 挿絵)も上梓し、翌1947年に コールデコット・メダルを獲得している。1950年代初頭に執筆したリトル・ゴールデン・ブックス シリーズの本には、 The Color Kittens(日本語題「いろいろねこ」), Mister Dog(日本語題「ミスタードッグ」、Sailor Dog 等がある。

ブラウンの本のまっすぐな語り口は、子どもに対して決して偉ぶることがなく、同時に、柔らかなウィットが親たちをも楽しませる。それまで児童文学の主流であったおとぎ話や冒険譚に代わって、ブラウンは静かな瞬間とやさしい観察に焦点をあてる。ブラウンの本にはものを言う動物たちがたくさん出てくるが、登場するものたちは幼い読者たちの興味を引き付け続ける人間らしさを見せている。

ブラウンの代表作のひとつ、おやすみなさいおつきさま(Goodnight Moon は1945年にはすでに書かれていたが、画家クレメント・ハードによる挿絵の完成を待って、1947年秋、ハーパー社から刊行され、初版の売り上げは6000部以上を数えた。しかし、こうした現代的な絵本に批判的な意見がなかったわけではない。ニューヨーク図書館のアン・キャロル・ムアは同図書館の推薦図書リストにこの本を加えることをよしとしなかった[3]

友人たちから「ブラウニー」と呼ばれていたブラウンは、スペイン王子フアンフアン・カルロス1世の父)とデートする一方で、1940年夏からは詩人・劇作家・女優でジョン・バリモアの元妻でもあるMichael Strange (芸名 Blanche Oelrichs)と長い関係を持ち始めた。この関係は、指導的なものから始まって、次第にロマンティックなものとなり、1943年にはマンハッタンのグレイシー・スクウェアで一緒に暮らすようになった[4] Strangeはブラウンより20歳年長で、1950年に世を去る。

1952年、ブラウンは パーティでジェイムズ・スティルマン・ロックフェラー・ジュニアと出会い、婚約する。その同じ年、フランスのニースへの旅の途上で、ブラウンは塞栓のため、わずか42歳で急死する。卵巣嚢腫の緊急手術を受けて2週間後のことであった。皮肉にも、いかに快調かを医者に見せるために足を振り上げたそのせいで、足に生じていた血栓ができた場所からはずれて血管を通って心臓に至ったのである。[5]。ブラウンは亡くなるまでに百冊以上の本を出していた。彼女の灰は彼女の故郷の島、メイン州ヴィナルヘイヴンのThe Only Houseに散骨された[6]

ブラウンは、「おやすみなさい おつきさま」や「ぼくにげちゃうよ」を含む自著の多くの印税を近所に住む9歳の少年、アルバート・クラークに遺贈した。2000年、ジョシュア・プレガーはクラークの悩み多き人生をウォールストリートジャーナルで詳しく報じた。本が稼ぐ何百万ドルもを浪費し、ワイズ・ブラウンは自分の母なのだと信じたが、他人には取り合ってもらえなかったという[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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