マーガレット・バーク=ホワイト
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マーガレット・バーク=ホワイト
テレビ番組『Person to Person』にて(1955年8月)
本名Margaret Bourke-White
国籍 アメリカ合衆国
出身地ニューヨーク市ブロンクス区
生年月日1904年6月14日
没年月日 (1971-08-27) 1971年8月27日(67歳没)
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マーガレット・バーク=ホワイト(Margaret Bourke-White, 1904年6月14日 - 1971年8月27日)は、アメリカ合衆国写真家

建築写真の分野で成功したのち、女性として初の戦場カメラマンとして第二次大戦中のヨーロッパで連合軍に密着し、数々のスクープ写真を発表[1]。戦後もパキスタン独立や朝鮮戦争などを取材し、20世紀を代表する写真ジャーナリストの一人と見なされるようになった[2]
概要

マーガレット・ホワイトは1904年6月14日、発明家の父ジョセフ (Joseph) と、母ミニー (Minnie) の間に三人兄姉の次女としてニューヨーク市で生まれる[3]。父のジョセフは熱心なアマチュア写真家で、娘が幼少のころから写真技術を手ほどきしている[1]。母のミニーは、まだ男性だけのスポーツと考えられていた自転車競技に選手として参加するなど、当時としてはきわめて活発な女性だった。娘マーガレットに最初のカメラを贈ったのは母親で、レンズにヒビが入った20ドルの中古品だったという[2]

マーガレットは高校卒業後、コーネル大学ミシガン大学コロンビア大学など複数の大学を転籍し、この間に同級生と結婚しているが1年で離婚、以後は母親の旧姓バークを加えて「バーク=ホワイト」を名乗るようになる[4]。このときコロンビア大学では、写真技術教育の第一人者だったクラレンス・H・ホワイトに師事、在学中から、撮影した写真を雑誌社に売って学費を工面するようになった[3]
建築・工業写真家として

1927年に卒業後は、クリーヴランドへ移ってフリーの写真家としてキャリアを開始した。ここで彼女は、当時あまり注目されていなかった建築・工業写真で新しい感覚にもとづく作品を相次いで発表した[5]。これが『TIME』誌の編集者ヘンリー・ルースの目にとまり、彼が1929年に新しいビジネス誌『フォーチュン』を創刊すると、その専属写真家としてバーク=ホワイトを抜擢した(創刊号の表紙写真も彼女の撮影である)[6][1]

彼女は雑誌の仕事のためアメリカ、カナダ、ヨーロッパの著名な企業・工場を数多く取材・撮影し、とくに1930年には五か年計画を取材するためソビエト連邦へ渡って外国人として初めて工業化の様子を撮影した[7]。帰国後には、この取材をもとに『ロシアへのまなざし (Eyes on Russia)』と題する写真集を刊行、同時に『ニューヨーク・タイムズ』紙へも長文の現地報告記事を執筆して大きな反響を呼び、写真ジャーナリストとしての名声を確立することとなった[8]
大恐慌とニュー・ディール『The Louisville Flood』1937年 バーク=ホワイトは不況下のアメリカ社会を広く取材し、人々の暮らしを克明に記録した。ケンタッキー州ルイビルの救護所で、食料と衣類を手に入れるために並ぶ、アフリカ系アメリカ人の洪水被災者の列。

1936年、バーク=ホワイトは小説 『タバコ・ロード』の著者として知られていた作家アースキン・コールドウェルとともに、大恐慌後の貧困にあえぐアメリカ南部の小作農民の暮らしを取材する[9]。これを共同でまとめた写真集 (You Have Seen Their Faces)(1937)は、社会改革を訴える強いメッセージを打ち出して、きわめて高い評価を受けている[10][11](二人は1939年に結婚したが、1942年に離婚[2])。

これと並行して、彼女は編集者ヘンリー・ルースが創刊した次の雑誌『ライフ』で、4人の専属写真家の一人となった[12]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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