マーガレット・サンガー
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マーガレット・サンガー
1922年
生誕マーガレット・ルイーズ・ビギンス(Margaret Louise Higgins)
(1879-09-14) 1879年9月14日
アメリカ合衆国 ニューヨーク州コーニング
死没1966年9月6日(1966-09-06)(86歳)
アメリカ合衆国 アリゾナ州トゥーソン
職業社会運動家性教育者作家看護師
配偶者ウィリアム・サンガー
ジェームズ・ノア・H・スリー
子供3人
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マーガレット・ヒギンズ・サンガー(英語: Margaret Higgins Sanger, 1879年9月14日 - 1966年9月6日)は、アメリカ合衆国産児制限活動家。性教育者。看護師。作家。優生学のある側面における唱道者。日本では「サンガー夫人」として知られていた[1][2]

米国初の避妊クリニックを開設しそれは後に全米最大の中絶クリニック、全米家族計画連盟へと発展した[3]。現代の産児制限運動の創設者と広く見なされている[4]
生涯息子のストュアートとグラントと共に(1919年頃)

1879年、ニューヨーク州コーニングにマーガレット・ルイーズ・ヒギンズ(Margaret Louise Higgins)として誕生[5]。両親共アイルランド系で、母のアン・パーセル・ヒギンズ(Anne Purcell Higgins)は敬虔なカトリック信者で、父のマイコー・ヘネシー・ヒギンズ(Michael Hennessey Higgins)は石工無神論者であった。彼女の母は結核と頸部の癌のために49歳で死去するまでに、生涯で18回妊娠し11回出産した[6]。マーガレットは11人のうちの6人目の子であり、幼年期をせわしい家庭で過ごした[7]。マーガレットは姉に授業料を払ってもらいながらハドソンにあった寄宿制の学校、クラバラック大学に通学し医師になることを志していたが、経済的にやっていけなくなった。マーガレットが帰宅し、ニューヨークの裕福な郊外であるホワイト・プレインズにあった病院付属の看護学校に通い始めた1899年に母親は死去した。1902年、マーガレットはユダヤ人建築家のウィリアム・サンガー(William Sanger)と結婚した。結核に脅かされながら、結婚翌年に男子を一人出産、さらに翌年に弟と妹を出産したが、この女子は結核により夭折。一家はニューヨーク州ウェストチェスターの閑静な郊外へ転居した[8]
社会運動

しかし1912年の大火で自宅が焼失したため、一家はニューヨークシティに転居する。サンガーはマンハッタン東部イーストサイドスラム街で訪問看護師として働き始め、この頃から夫婦で政界関係者と親交を持ちはじめニューヨーク社会党女性委員会に加盟する。世界産業労働組合に参加し労働運動に自らも取り組み、地元の知識階級、左派系芸術家、社会主義者、社会運動家と付き合い始めた[9]。サンガーのこの、政治活動への参入、フェミニズムへの傾倒、看護師としての職業経験はすべて『全ての娘が知るべきこと(What Every Girl Should Know)』、『全ての母が知るべきこと(What Every Mother Should Know)』と題するコラムを社会主義誌New York Callに発表することに繋がった。このサンガーの記事は性に対してあまりにフランクでストレートであったため、多数の読者から激昂を買ったが絶賛する声も多くあった[10]
産児制限運動

貧困層の女性に「家族制限(Family Limitation)」というパンフレットを配りつづけ、コムストック法違反の廉で何度もスキャンダルを巻き起こし投獄された。避妊法と避妊具を広めることが猥褻行為にあたったためだ。

1913年、夫と離婚する。1914年、産児制限の普及を目的とした新聞「女性反逆者(The Woman Rebel)」を始めた。1916年10月16日、ブルックリンのそばにあるブラウンズヴィルに家族計画と産児制限のための診療所を開設した。この種の施設としてはアメリカ合衆国で最初のものである。これは官憲の不興を買うことになり、マーガレットは猥褻郵便物(産児制限に関する情報)を送付した廉で逮捕された。起訴を逃れるためマーガレットは欧州に渡り、そこで著名なSF作家H・G・ウェルズと恋仲になった。翌年、合衆国に帰ると活動を再開し、不定期刊行物の「産児制限レビュー&ニュース(The Birth Control Review and Birth Control News)」を立ち上げた。アメリカ社会党の機関紙「呼び声(The Call)」に健康に関する寄稿を行うこともあった。サンガーは『Birth Control Review(産児制限批評)』を1917年から1929年まで刊行した。[注釈 1]

1916年、マーガレットは「全ての娘が知るべきこと(What Every Girl Should Know)」を出版し、この本は後に E. Haldeman-Julius の "Little Blue Books" の一冊として広まった。月経などに関する基礎的な知識だけではなく、思春期の性についても理解を広めようとするものであった。1917年には「全ての母が知るべきこと(What Every Mother Should Know)」を出版した。この年、マーガレットは「社会の邪魔者」として感化院に押し込まれた。

Lothrop Stoddard や C. C. Little と共にマーガレットがアメリカ産児制限連盟, ABCL)を設立したのは1921年のことである。翌1922年、マーガレットは日本に渡り、日本人フェミニストである男爵夫人石本静枝と共同して産児制限運動を推進しようとした。訪日はこの他にもその後数年の間に6回に及んだ。また1922年には、マーガレットは石油王ジェームス・ノア・ヘンリー・スリー(James Noah Henry Slee、1861-1943)と結婚した。1923年、ABCLの後援のもと、マーガレットは臨床研究局を設立、これが合衆国で最初の合法的な産児制限診療所となった(1940年に、マーガレットの功績をたたえて「マーガレット・サンガー研究局(Margaret Sanger Research Bureau)」と改名した)。またこの年には「産児制限のための連邦法制定全米委員会(National Committee on Federal Legislation for Birth Control)」を作り、会長となった。多くの州で医学的な管理下における産児制限が合法化された後の1937年に解散するまで、会長でありつづけた。1927年にはジュネーブで開かれた最初の世界人口会議の組織に当たって助力を行った。

1928年、マーガレットはABCLの会長を辞した。二年後、「産児制限国際情報センター(Birth Control International Information Center)」の会長となった。1932年1月、en:Mirza Ahmad Sohrab と Julie Chanler が創立した New History Societyで演説を行い、これは後の「平和のための計画 (A Plan for Peace) 」の元となった[11]。1937年、マーガレットは Birth Control Council of America の議長となり、二つの出版物を興した。The Birth Control Review 及び The Birth Control News である。1939年から1942年まで Birth Control Federation of America の名誉代表をつとめた。1952年から1959年まで、私設のものとしては当時最大の国際家族計画連盟の会長をつとめた。
晩年

1960年アメリカ合衆国大統領選挙において、サンガーはジョン・F・ケネディ候補が産児制限に関してとっている態度に辟易することになった。ケネディは産児制限を国政の問題とするべきではないと主張していたためである。ケネディが当選したらアメリカを去ると言っていたサンガーであったが、後に態度を改めた。

1960年代初頭から、開発されたばかりの経口避妊薬の利用を推進した。欧州だけでなくアフリカアジアを回り、特にインドと日本で講演を行い診療所の設置を援助した。

1966年、アリゾナ州トゥーソンにて心不全により死去。享年87歳。死の数か月前にグリスウォルド対コネティカット州事件(381 US 479、避妊法の指導者が州法違反として訴えられた事件。避妊具利用法の指導を禁止したコネティカット州法が違憲とされた。プライバシー権を認めた判決)の歴史的な判決が出た直後であった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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