マーカス・グロンホルム
2014年
基本情報
国籍 フィンランド
生年月日 (1968-02-05) 1968年2月5日(56歳)
WRCでの経歴
活動時期1989年 - 2007年,2009年
コ・ドライバー ティモ・ラウティアイネン
所属チームトヨタ、プジョー、フォード
出走回数150
チャンピオン回数2 (2000年, 2002年)
優勝回数30
表彰台回数60
ステージ勝利数540
通算獲得ポイント615
初戦1989 1000湖ラリー
初勝利2000 スウェディッシュラリー
最終勝利2007 ラリー・ニュージーランド
最終戦2010 ラリー・スウェーデン
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マーカス・ウルフ・ヨハン・グロンホルム[1](典: Marcus Ulf Johan Gronholm, 1968年2月5日 - )は、フィンランド・インクー[2]出身のラリードライバー。スウェーデン語系フィンランド人である。2000年、2002年の世界ラリー選手権(WRC)王者であり、WRC歴代3位の30勝を記録した。 父ウルフ・グロンホルムはフィンランド・ラリー選手権で2度のチャンピオンとなったが、1981年、マーカス13歳の時テスト中に事故死した。父の影響でラリーに興味を持つが、当初はモトクロスの選手だった。しかし足を痛めたことでラリーに転向。1987年にキャリアを始め、フィンランド国内選手権やスポット参戦でキャリアを積み、1990年の地元1000湖にはワークス放出のトヨタ・セリカ (ST165) で出場した。これを機にトヨタとの関係が始まり、1994年の1000湖ではST185セリカで5位を獲得した。 その後もトヨタ・カストロール・チームやグリフォーネといったトヨタ系プライベートチームや、三菱、セアトでの助っ人参戦などでWRCにスポット参戦を続けたが、プライベートチーム故のテスト不足や経験不足から、思うような結果が出せず、同世代のコリン・マクレーやカルロス・サインツ、トミ・マキネンらとは対照的に不遇の時期を送る。しかしフィンランド国内選手権では当時最強を誇り、1994、1996、1997、1998年の4回チャンピオンとなっている。 しかしその不遇の時期も、突然一変することになる。1998年ラリー・フィンランドをカローラWRCで好走するもクラッシュし、牧場の仕事に戻ろうかと真剣に悩んでいた時、当時WRC復帰を目指していたプジョーのチームマネージャーであったジャン=ピエール・ニコラが声を掛けたことで、契約と相成った[3]。 晴れてプジョーのワークスドライバーとなったグロンホルムは206 WRCをドライブ。フル参戦初年の2000年に第2戦スウェーデンで待望のWRC初優勝を飾り、シーズン4勝を挙げて念願のWRC年間王者に輝く。 翌2001年は前半戦でリタイアを重ね、後半に3勝を挙げたものの、スバルのリチャード・バーンズに王座を明け渡してしまう。しかし2002年には年間5勝を挙げ、2位以下に2倍以上の圧倒的なポイント差をつけて再び年間王者に返り咲いた。この年は好調のあまり、しばしば笑いながら運転する様子が車内カメラに映し出されていた。この年はレース・オブ・チャンピオンズ(RoC)でも、当時新人のセバスチャン・ローブを下して優勝している。 2003年は前半に3勝を挙げるも、中盤からリタイアが重なりチャンピオンを逃した。この年チャンピオンとなったペター・ソルベルグや、その後圧倒的な成績を残し続けることとなるセバスチャン・ローブといった若手が台頭し、2004年からの新車307WRCの不調などもあり、複数回の優勝はするが年間王者までは手が届かずにいた。 プジョーが2005年いっぱいでWRCからの撤退を決断したため、2006年からはフォードへ移籍した。 2006年シーズンは開幕2連勝を達成し順調なスタートを切ったが、ライバルのローブは常に優勝か2位という結果でシーズンを進めた。
経歴
苦労人時代
プジョー時代307WRC。2004年ラリー・モンテカルロにて。
フォード時代フォーカスRS WRC 06。2007年ラリー・カタルーニャにて。