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1992年のマン島TTレースでホンダRC30を駆るジョイ・ダンロップ。レースはこのように公道で行われている。沿道にいる人々は観客。
マン島TTレース(マンとうティーティーレース、英:The Isle of Man TT )は、1907年からイギリス王室属国のマン島 (Isle of Man) で開催されているオートバイ競技である。TTはTourist Trophy(ツーリスト・トロフィー)の略称。
競技は世界最古の議会で『青空議会』としても知られるマン島議会ティンワルドが制定した公道閉鎖令に基づき公道を閉鎖して行なわれる。2023年現在で260人以上の参加者が死亡しており[1]、世界で最も危険な競技とも言われている。 Tourist Trophy(ツーリスト・トロフィー)という賞杯が最初に懸けられのは、1905年9月14日にマン島で開催された自動車レース (1905 International Tourist Trophy
概要
ツーリストとは旅行者ではなく「遠征するスポーツ選手」という意味で、マン島TTレースの場合はライダーのことを指す。レースの形態が現在のようなサーキット(周回コース)を使用して行われるようになるまで、ヨーロッパの都市と都市を結ぶ公道を使用して行う都市間長距離移動レースという形態であったことに由来しており[4]、自転車競技のステージレースで「ツアー(フランス語では「ツール」)」という語が用いられるのと同様である。
開始当初はツーリング・マシンと呼ばれる市販車と同じオートバイのために開催されており[5]、市販車の改良を目的としていた。やがて、レースに出場するオートバイは年々スポーツタイプと進化していった[6]。
伝統的に5月最終週から6月第1週にかけて開催され、コースは島の南東部にある首都ダグラスを始点として、西へ北へと大きく曲がりながら、北東海岸部の町ラムゼイまで往復する。1周の長さは37 3/4マイル(60.7km)で、200以上のカーブが存在し、海抜0ftから1,300ft(396m)を超える高低差がある。コースは普段一般道として日常生活や観光のために使われており、レーサー達が通行する際は一般車両を規制する。参加車両の最高速度は300km/h以上であり、平均速度は200km/hを超え、1周を20分弱で走破してしまう。
サーキットのように完全に整備された舗装路ではないごく普通の一般道のため、わずかな段差で十数メートルをジャンプする事もあれば、トップスピードで前後サスペンションが激しく動いて振動を吸収している姿も見られる。超高速コーナーでのパワースライドやウィリー走行、市街地部分やヘアピンコーナーでのオーバーテイクもごく当たり前に行われており、それを目当てにして観覧禁止区域に侵入してしまうギャラリーも多い。公道のためエスケープゾーンがほとんど存在せず、事故の際のライダーは「運が良ければ生還」という例が大半であり、基本的には死亡事故である。参加者は過度なアドレナリン分泌により、レース中は一切の恐怖を感じないという。完走後は緊張の糸がほぐれた影響により、へたり込んだり泣き出してしまうライダーも多い。
授与されるトロフィーは創設者の一人であるマルキ・ド・モウジリ・サン・マルス(the Marquis de Mouzilly St. Mars )が寄贈したもので、その銀のフィギュアはオリンピックの神ヘルメースが羽の生えている車輪にまたがっているものである。このトロフィーは、マン島・ツーリスト・トロフィー・自動車レースの勝者に授与されるモンタギュー・トロフィーに似ている。順位以外でも、完走したライダーには最大級の栄誉が与えられる。
近年、初参加選手にはマンクス・グランプリでの実績と経験が求められる[7]。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
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出典検索?: "マン島TTレース"
マン島のレースは1904年にゴードン・ベネット・カップの出場者を選抜するトライアルとして始まり、当初は自動車のみのレースだった。1903年に英国にて自動車法が施行されて20mphの速度制限が実施された。英国・アイルランド・自動車クラブ(後の王立自動車クラブ)の代表は、マン島上層部に接触して公道での自動車レースの許可を要請し、1904年の公道(軽蒸気機関)法でマン島52.15マイルの"ハイランド(高地)"コースの使用が許可された。
1905年のゴードン・ベネット・カー・トライアルで、国際モーターサイクルカップレースに出場する英国代表チームを選出するためのトライアル競技を開催することが決定した。険しい山岳セクションの登坂がモーターサイクルには難しく、ラムゼイ・ヘアピンでは事故も起きたことから、競技委員は最終的にゴードン・ベネット・トライアルコース中の25マイルセクションをコースとして設定した。マン島の首都、ダグラス市の南部からキャッスルタウンを抜けて北上し、A3道路でバラクレイン方面に向かう途中で折り返し、コルビーとグレン・バインを経由してスタート地点のダグラスに戻るという、現在のルートを逆にたどる設定だった。このレースではJ.S.キャンベルが4時間9分36秒で優勝している。
1906年、国際モーターサイクルカップがオーストリアで開催されたが、このレースでは不正行為や策略が横行して混迷した。列車で帰還する際にオート=サイクル・クラブの代表とフレディ・ストレート、コリエル兄弟(マチレス・モーターサイクル)、マルキ・ド・モウジリ・サン・マルスといった面々が話し合った結果、翌年のレースは公道用のモーターサイクルを使い、マン島での公道閉鎖コースでの自動車競技をベースに行なうことが決まった。この新式競技方法は1907年1月17日にロンドンで開催されたオート=サイクル・クラブの年次夕食会で雑誌『モーターサイクル』の編集者から提案された。競技は単気筒で平均燃費が90mpgのクラスと2気筒で平均燃費75mpgとの2クラスに分けて行われた。公道仕様車両のレギュレーション(規定)としてサドル、ペダル、マッドガード、排気サイレンサーに対して指定がなされた。
1907年5月28日に第1回競技が開催され、15マイル1,470ヤードのセント・ジョン・ショート・コースをサドル、ペダル、マッドガード(泥よけ)などを装備して公道での保安基準を満たしたツーリング用モーターサイクルで10周した。マチレスに乗ったチャーリー・コリエルが4時間8分8秒/平均時速61km/hで単気筒クラスと総合クラスで優勝。2気筒クラスはプジョーエンジンを載せたノートンでレム・フォウラーが4時間21分52秒/平均時速58km/hでの優勝だった。『マルキ・ド・モウジリ・サン・マルス』トロフィーはこの年から授与されるようになった。
1908年には燃費が単気筒は100mpg、2気筒は80mpgに上げられ、ペダルの使用は禁止された。ジャック・マーシャルがトライアンフで優勝し、平均時速は64km/hだった。1909年は燃費規定が改正されて排気サイレンサーの使用が廃止された。単気筒マシンは500ccまでと規定され、2気筒マシンは750ccまでとされた。周回速度の高速化に伴い、1910年から2気筒マシンは670ccまでとされた。
マウンテン・コース時代Philip McCallenとホンダVFR750R
新コースとして設定された37.5マイルのスネーフェル・マウンテン・コース(Snaefell mountain course)での第1回目は1911年に行なわれた。ジュニアTTレースとセニアTTレースの2つに分離され、ジュニアTTレースは300ccの単気筒または340ccの2気筒で4周し、セニアTTレースは500ccの単気筒または585ccの2気筒でを5周した。この年、ジュニアTTレースで35台がエントリーし、ハンバーに乗ったパーシー・J・エバンズが3時間37分7秒/平均時速41.45mphで優勝した。
マウンテン・コースでは乗員と車両の双方に技術的な挑戦が求められた。インディアンは2速ギアボックスとチェーン駆動を採用し、1911年マン島セニアTTでオリバー・ゴドフレイが3時間56分10秒/平均時速47.63mphで優勝した。これに対して、マチレスは6速ベルト駆動で、チャーリー・コリエルが乗り2位となったが、レース後、規定外の給油により失格している。1911年の予選中にビクター・サリッジがラッジに乗りグレン・ヘレンでクラッシュを起こし亡くなっている。
1912年には、単気筒と2気筒の別なく350ccまでがジュニアTTレースとなり、500ccクラスがセニアTTレースとなった。1913年、オートサイクル・クラブの代表がトミー・ラフボローからフレディ・ストレートになり、すぐにレースがより難しく変更された。ジュニアTTレースは2つのレースに分離され、2周と4周になった。セニアTTレースは7周で、ジュニアTTレースの4周組と一緒にスタートした。1914年、ジュニアTTは5周となり、スタート地点もブレイ・ヒルに移動した。これにより競技者のパドックスペースが広く取れるようになった。クラッシュに備えてヘルメット着用が義務付けられた。1914年、ジュニアTTは豪雨の中で開催され、マウンテンコースは霧が発生していた。AJSに乗ったエリック・ウィリアムズが4時間6分50秒/平均時速45.58mphで優勝した。この年、ロイヤル・エンフィールドに乗ったフランク・ウォーカーが事故で亡くなっている。 マン島でのモーターサイクルレースは第一次世界大戦終了後、1920年に再開した。スネーフェル・マウンテン・コースに変更が加えられ、スタートとゴールはグレンクラチェリーロードに置かれた。コース長は37.75マイルとなった。ジュニアTTレースでは250cc軽量クラスも新設された。1923年のコース変更で議会広場からラムゼイのメイヒルにかけての私道が含まれて、コース長は37.73マイルとなった。スネーフェル・マウンテン・コース の一部は、Creg-na-BaaとHillberryの途中でクラッシュし足の骨を折ったライダー、ウォルター・ブランディシュにちなみ、ブランディシュと名づけられた。 1923年のセニアTTレースは悪天候と地元出身の地の利でトム・シェアード
1920年代-1930年代
1926年はサイドカーと超軽量にエントリーが無かったため廃止となった。スネーフェル・マウンテン・セクションを含め、ほとんどのTTコースは舗装された。1926年の変更はアルコールベースの燃料が禁止され、車両用ガソリンの使用が求められた。1927年には予選中にアーチー・バーキン(ティム・バーキンの兄弟)が事故を起こしたカーク・マイケルのコーナーがバーキンズ・ベンドと命名され、1928年から予選時も道を閉鎖して行われるようになった。
1930年(昭和5年)、多田健蔵はヴェロセットKTT(350cc)でジュニアクラスに出場してマウンテン・コースを走り、15位になった。初出場で完走し、年齢が42歳であったことを高く評価されてレプリカ賞を獲得した[8]。 第二次大戦後の1949年、FIMはロードレース世界選手権(WGP)を開始して、マン島TTレースはイギリスラウンドとして世界選手権シリーズの一戦に組み込まれた。その後もWGPの中でも最も重要な一戦として位置づけられていた。 1954年から1959年まではクリプス・コース(Clypse Course)が使われた。マウンテン・コースの南東に位置する1周17.38kmの公道を使用したロードコースで、マウンテン・コースの一部も使用した。コース名は、人造湖のクリプス湖
WGP
年々のマシンの性能向上は著しく、1957年にはボブ・マッキンタイヤが初めて100mphを超える平均速度(オーバー・ザ・トン)を記録した。
1959年は日本のホンダが初めて125ccクラスに参戦して完走して谷口尚己が6位入賞、2年後の1961年にはマイク・ヘイルウッドの手によりマン島初優勝を記録した。1963年の50ccクラスではスズキの伊藤光夫が日本人として初優勝した。
マン島TTレースはグランプリの一戦となってからも世界最大のロードレースイベントであり続けたが、一方では60kmに及ぶマウンテン・コースやインターバルスタートといった他のグランプリとは異質な要素が、近代的なサーキットに慣れたGPライダーたちから敬遠されるようになった。また、舗装が荒れていてもコースが長距離に及ぶために改修費用は莫大なものとなる一方で、観客から入場料収入を得ることができない公道コースでは費用の捻出ができなかった。そして、オートバイの速度向上にコースの整備が追いつかず、安全性を重視するライダーはマン島TTレースへの出場を拒否するようになった。ヤマハは1972年はマン島TTレースのみ参加せず、同年ジャコモ・アゴスチーニは「コースが改修されない限り、1973年は出場しないつもりだ」と語った。1973年は有力なチームとライダーは出場しなかった。
そして1976年、FIMは翌年からマン島TTレースをロードレース世界選手権のカレンダーから外し、代わりにイギリスGPとしてシルバーストンでのレースをカレンダーに加えることを発表した。