マン・モハン・アディカリ
[Wikipedia|▼Menu]

マン・モハン・アディカリ(ネパール語: ?????? ???????、: Man Mohan Adhikari、1920年6月 - 1999年4月26日)は、ネパール王国政治家首相1994年から1995年にかけて、首相を一期務める。ネパール共産党統一マルクス・レーニン主義派(CPN-UML、通称・統一共産党)元党首。
生涯
幼少期・青年期

カトマンズのラジムパット生まれ。少年期をビラートナガルで過ごす。1938年インドヴァーラーナシーに留学。1942年、大学在学中、インド独立運動(Quit India Movement)に参加し、イギリス植民地当局に逮捕される。インド留学中に、インド共産党に入党。
初期の政治活動

ネパールに帰国後、ビラートナガルで労働組合運動の指導者となる。

1949年ネパール共産党の創設に参加。1954年第2代ネパール共産党総書記に就任。その後、ネパール共産党は分裂と離合集散の時代を迎え、アディカリもさまざまな立場をとるが、1971年獄中からの解放を機に「ネパール共産党マンモハン派」を結成する。

1987年サハーナ・プラダン率いる「ネパール共産党プシュパラール派」と合同し、「ネパール共産党マルクス主義派」を結成。プラダンを議長に、1990年の民主化運動(ジャナ・アンドラン)に参加する[1]。これを機に、「ネパール共産党マルクス・レーニン主義派」と接近し、ついに、両派は合同することになる[2]
統一共産党とアディカリ内閣

これが1991年1月6日に結成された、ネパール統一共産党(ネパール共産党統一マルクス・レーニン主義派 略称UML)である[3]。アディカリは1993年の党大会で党議長に選任される。

1994年11月30日議会から首相に選任される[4]王室共産党政権の共存という世界的に見ても稀有の政権を成立させる。

しかし、1995年9月にはネパール会議派国家民主党と共同し、内閣不信任案を可決。少数与党しかもたなかったアディカリ内閣はあっけなく倒れた。

1999年、アディカリの死後、統一共産党の党首は総書記のマーダブ・クマール・ネパールが継いだ。
脚注^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.665
^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.670
^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.671
^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.672

参考文献

佐伯和彦『世界歴史叢書 ネパール全史』明石書店、2003年。 

関連項目

ネパールの首相

ネパール共産党マンモハン派

先代
ギリジャー・プラサード・コイララネパール王国の首相
1994年-1995年次代
シェール・バハドゥル・デウバ










ネパール王国首相

19世紀 - 1846年

ダモダル・パンデ / ラナ・バハドゥル・シャハ / ビムセン・タパ / ラナ・ジャンガ・パンデ / ランガ・ナート・パウデル / プシュカル・シャハ / ラナ・ジャンガ・パンデ / ランガ・ナート・パウデル / ファッテ・ジャンガ・シャハ / マートバル・シンハ・タパ / ファッテ・ジャンガ・シャハ
ラナ家による世襲
1846年 - 1951年

ジャンガ・バハドゥル・ラナ / バム・バハドゥル・ラナ / クリシュナ・バハドゥル・ラナ / ジャンガ・バハドゥル・ラナ / ラノッディープ・シンハ・ラナ / ビール・シャムシェル・ジャンガ・バハドゥル・ラナ / デーブ・シャムシェル・ジャンガ・バハドゥル・ラナ / チャンドラ・シャムシェル・ジャンガ・バハドゥル・ラナ / ビーム・シャムシェル・ジャンガ・バハドゥル・ラナ / ジュッダ・シャムシェル・ジャンガ・バハドゥル・ラナ / パドマ・シャムシェル・ジャンガ・バハドゥル・ラナ / モハン・シャムシェル・ジャンガ・バハドゥル・ラナ
1951年 - 1960年

マートリカ・プラサード・コイララ / タンカ・プラサード・アーチャリヤ / クンワル・インドラジット・シンハ / スバルナ・シャムシェル・ラナ / ビシュエシュワル・プラサード・コイララ


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:19 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef