マンフレート・フォン・リヒトホーフェン
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マンフレート・フォン・リヒトホーフェン
Manfred Albrecht Freiherr von Richthofen
リヒトホーフェンのポストカード(1917年?1918年頃)
渾名レッド・バロン(赤い男爵)
ディアブル・ルージュ(赤い悪魔)
生誕1892年5月2日
ドイツ帝国、シュレージェン州ブレスラウ
死没 (1918-04-21) 1918年4月21日(25歳没)
フランス共和国ソンム県ヴォー=シュル=ソンム近郊モランクール
所属組織

プロイセン陸軍 ドイツ帝国陸軍航空隊
軍歴1911年 - 1918年
最終階級騎兵大尉
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マンフレート・アルブレヒト・フォン・リヒトホーフェン男爵(Manfred Albrecht Freiherr von Richthofen、1892年5月2日 - 1918年4月21日)は、ドイツ陸軍軍人、パイロット第一次世界大戦参加各国で最高の撃墜機記録(80機撃墜、ほか未公認3)を保持するエース・パイロットとして知られる。乗機を鮮紅色に塗装していたことから「レッド・バロン」(赤い男爵)や「ディアブル・ルージュ」(赤い悪魔)の異名で呼ばれた。
概要

リヒトホーフェンは、第一次世界大戦における空中戦で前人未踏のスコアである80機撃墜(未公認2[1]を除く)を達成した[2]プロイセン王国(ドイツ)では Der rote Kampfflieger (赤い戦闘機乗り)、敵国のフランスでは Le petit rouge (小さな赤)、Diable Rouge (赤い悪魔)と、イギリスでは Red Knight (赤い騎士)、あるいは Red Baron (赤い男爵)と呼ばれた[3]。数々の異名に「赤い」と付くのは、彼がエースとして両軍で名声を得た後、乗機全体を明るい赤で塗装したことによる[3]。彼が全体赤色の機体を使用した期間は、戦争後期の敗色濃い後半以降で、全ての乗機が赤色だった訳ではない[3]
生涯リヒトホーフェン家の紋章
生い立ち

シュレージエン地方のブレスラウ(現ポーランド共和国ヴロツワフ)にアルブレヒト・リヒトホーフェン男爵とその妻クニグンデの長男として、1892年5月2日に生まれた[4]。9歳の時で家族は近くのシュヴァイトニッツに移りすみ、狩猟や乗馬を楽しむ少年時代を送った[5]。11歳で陸軍幼年学校に入り、士官候補生となり以降軍服に包まれた人生を歩む[6]。スリルを好み12歳の時にバハルシュタットの尖塔の頂上へ上ったりした[7]1911年4月にプロイセン陸軍士官学校を卒業し、陸軍軍籍を得た[7][8]。槍騎兵の第一槍騎兵連隊(俗称、ロシア皇帝アレクサンドル3世皇帝連隊)に配属された[8]
槍騎兵

第一次世界大戦勃発直後、リヒトホーフェンは東部戦線では馬を駆り、敵情偵察に活躍した[9]。騎兵として開戦早々に臨んだ初陣では、ロシア国境を越えカリッシュのキールツェ村を占領したが、味方の兵力が分散された時に敵の部隊に包囲された。彼は隠密行動により敵中を辛くも離脱したが、隊では戦死の報告がなされ家族は弔問の客を迎えていた。

その後、短期間で部隊がベルギーへ転進し東部戦線での活動はごく短く終わった[10]。このアールロンへの移動中、初めて戦争に飛行機が使用されるところを見て、リヒトホーフェンはこれに非常に興味をもった[11]。「私は飛行士が何をしているか知らなかった」しかし「飛行士の姿を見るたびに興奮した」と後に語っている。アールロンではピルトンの森でドイツ第5軍とフランス第3軍の会戦の機が熟していた。彼の15騎の槍騎兵隊は偵察任務をになった。小径を進んでいるとフランス兵の計略に遭い銃撃を受けた。後退しようとするリヒトホーフェンの隊は、撤退の合図を援護の合図と勘違いした部下達の前進とで、小道の上で混乱し、さらに銃撃を受けた部下の馬が敵側に暴走してそれに乗っていた2名を失う最初の敗北を喫した。彼のプライドはこの敗北に深く傷ついた。

やがて膠着状態に陥った西部戦線では機関銃鉄条網の陣地戦となり、騎兵の活躍の場は極めて少なくなったばかりか、彼が戦前に想像した「旗をはためかして最前線で突撃する」という構図はすでに実戦では自殺行為となっていた。伝令兵となり活躍の場を期待したが、前線から1.5キロメートル以内の立ち入りを禁止され、前線兵士からも「無駄飯食い」とみなされる後方勤務でしかなかった[12]。師団が攻撃に加わるのでいよいよ活動できると期待したが、今度は補助的な任務を与えられた[13]。そのため、ついに彼は槍騎兵部隊から転属願いを師団長に出し、その結果1915年5月に飛行訓練所への入所が認められた[14]
航空隊へ

リヒトホーフェンが志望した当時の飛行隊にはまだ戦闘機はなく、単機同士の銃撃戦や飛行機が編隊飛行を行うことさえなかった[15]。飛行機は写真偵察や味方砲撃での着弾観測が主任務で、パイロット同様に優れた偵察員が必要とされた[15]。彼の志望の動機も「少なくとも前線で何が起きているかを見ることができるから」であった。彼は、ケルンの第七飛行訓練所で4週間の座学と15時間の機上訓練を受けることとなり、訓練所では最初に機上試験で飛行機に乗れるかが試された。リヒトホーフェンの偵察員の訓練教官は、アルバトロスB.II(英語版)偵察機の名操縦士ツォイマー中尉であった。

1915年5月にリヒトホーフェンは最初の任地としてロシア戦線へ偵察将校として派遣された[16]。操縦士のホルク伯爵が中隊に参加すると、彼とペアを組んで偵察任務に8月初めまでついた[17]。その8月初旬、ホルク機でブレストに向け偵察飛行中炎上するビクツニスの街の上でエンジンが故障し、低空飛行で帰る途中ロシア軍に撃墜された。辛くもドイツ側占領地に不時着して、2人はプロイセン近衛連隊の兵士に救助された。その後すぐにリヒトホーフェンはオーステンデで編成されたドイツ軍初の長距離爆撃隊のツォイマー機の爆撃手となった[18]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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