マンデラの名もなき看守
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マンデラの名もなき看守
Goodbye Bafana
監督
ビレ・アウグスト
脚本グレッグ・ラター
ビレ・アウグスト
製作ジャン=リュック・ファン・ダム
イラン・ジラード
アンドロ・スタインボーン
製作総指揮カミ・ナーディ
マイケル・ドゥナエフ
ジミー・ド・ブラバン
クウェシ・ディクソン
出演者ジョセフ・ファインズ
ダイアン・クルーガー
デニス・ヘイスバート
音楽ダリオ・マリアネッリ
撮影ロベール・フレス
編集ハーヴ・シュナイド
配給 ギャガ
公開 2007年12月14日
2008年5月17日
上映時間118分
製作国 ドイツ
フランス
ベルギー
南アフリカ共和国
イタリア
イギリス
ルクセンブルク
言語英語
コサ語
製作費$30,000,000[1]
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『マンデラの名もなき看守』(原題:Goodbye Bafana)は、2007年の映画
概要

南アフリカ政府の刑務官であったジェイムズ・グレゴリーの手記『さようなら、バファナ』(Goodbye Bafana)が原作で、ビレ・アウグスト監督によって映画化された。バファナとは主人公グレゴリーの幼なじみであった近所のコサ人の子どもの名前。

1968年から1990年にかけての南アフリカが舞台となっている。映画化にあたって、ネルソン・マンデラの承諾を得たことが、強調されている。
ストーリー

ジェームズ・グレゴリーは南アフリカの刑務官だった。コサ語を理解できるということで、終身刑を受けたネルソン・マンデラを監視するという任務に就き、1968年に刑務所のあるロベン島に赴任することとなる。妻グロリアは夫の昇進が近いということで、大感激であった。最初、マンデラを死刑にすることが当然と考えていたグレゴリーは、独房で実際にマンデラと出会い、その威厳ある態度に接することにより徐々に考え方を変え始める。マンデラの息子の死に、グレゴリー自らコサ語でお悔やみを言って、お互いに友好的な会話が成り立つ。マンデラは、アフリカ民族会議の『自由憲章』(The Freedom Charter)の意義を、正々堂々、グレゴリーに説く。だがグレゴリーは釈放間近のアフリカ民族会議の戦士へのコサ語の『秘密指令』を上司に報告してしまう。その戦士は釈放後に泳がされて連絡先に到着し、南アフリカ国軍の襲撃で戦死したことを知ったグレゴリーは罪悪感にさいなまれる。

1975年、マンデラ夫婦に便宜を図ったことが新聞報道されて、職場や地域の白人コミュニティーで孤立したグレゴリーは、退職を願い出たが却下される。南アフリカ当局は彼のマンデラ番としての役割を重視していたため、グレゴリーは、マンデラの移送先のボルスムーア刑務所にてマンデラ番としての『任務』に復帰する。1980年代になるとアパルトヘイト体制批判の世論もあり、孤立していた南アフリカ当局はネルソン・マンデラに対する待遇を変え始める。1983年5月30日、南アフリカ国軍司令部前での爆弾が炸裂し、一般市民に犠牲が出る。グレゴリーはマンデラやシスルらANC元幹部らを集め、彼らを非難する。『テロ』をやめさせるための指導者マンデラの役割に期待する白人も出てくる。グレゴリーの息子ブレントも成長し刑務官となったが、突然不幸に見舞われる。

1988年、マンデラがビクター・バースター刑務所に移り、グレゴリーも転任する。マンデラも刑務所内で広い屋敷が割り当てられるなどの自由を与えられ、アフリカ周辺諸国の高官と会談するまでになる。そして、マンデラ釈放で世界中が注目した1990年2月11日がやってくる。
背景

南アフリカのアパルトヘイト体制の下での看守の任務にあたったジェイムズ・グレゴリーの手記の映画化である。黒人の立場から書かれたものではないということで、いろいろ制約がでてくるが、アパルトヘイト体制の末端の当事者である看守による証言は貴重である。

ヨーロッパ系市民の入植開始から、1910年、南アフリカ連邦成立を経て、黒人・有色人種の移動の原則禁止と土地収奪の固定を柱としたアパルトヘイト体制が確立する。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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