マンスール
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、アッバース朝のカリフについて説明しています。その他の用法については「マンスール (曖昧さ回避)」をご覧ください。

アル=マンスール
??? ???? ??? ???? ?? ????? ???????
カリフ(アミール・アル=ムウミニーン)
フランシスコ・デ・スルバランによるマンスールの肖像画
在位754年 - 775年

全名アブー・ジャアファル・アブドゥッラー・イブン・ムハンマド・アル=マンスール
出生712年/13年/14年
フマイマ村
死去775年10月7日
メッカ近郊
配偶者ウンム・ムーサー
子女アル=マフディー、ジャアファルなど
家名アッバース家
王朝アッバース朝
父親ムハンマド
母親サッラーマ
宗教スンナ派
テンプレートを表示

アブー・ジャアファル・アブドゥッラー・イブン・ムハンマド・アル=マンスール(アラビア語: ??? ???? ??? ???? ?? ????? ???????‎、 Ab? Ja?far ?Abd All?h ibn Mu?ammad al-Man??r、712年[1]/13年?[2][3][4]/14年[1] - 775年10月7日)は、アッバース朝の第2代カリフ(在位:754年 - 775年)。即位後に用いた称号(ラカブ)の「アル=マンスール」は「勝利者[1][5]」「神の助けを受ける者[1][5]」を意味する。漢語史料での表記は「阿蒲恭払」。

アブー・ジャアファルは預言者ムハンマドの叔父アッバースの4代目の子孫にあたる。747年からのアッバース革命で戦果を挙げ、754年に異母弟サッファーフの跡を継いでカリフの地位に就き、「アル=マンスール」を称した。即位したマンスールはウマイヤ朝の官僚制度と地方行政機関を踏襲・整備し[4]、新都バグダードを中心に国家体制を構築していく[3]。マンスールの治世にアッバース朝の支配体制が確立され、そのために彼は王朝の実質的な創始者と見なされている[1][3][4]10世紀末までのアッバース朝の黄金時代の基盤はマンスールの時代に完成したとされ[6]、最大の功績にはアッバース朝の首都バグダードの建設が挙げられる[5]西アジア世界においては、孫のハールーン・アッ=ラシードとともによく知られているアッバース朝のカリフである[7]

マンスール以降に即位したアッバース朝のカリフは、全て彼の直系子孫である[8][9]
生涯
若年期

アブー・ジャアファルは、アッバース家の家長ムハンマド・イブン・アリー・イブン・アブドゥッラーフとベルベル人の奴隷サッラーマの子として生まれた。ウマイヤ朝のカリフ・ワリード1世の時代にアブー・ジャアファルの祖父アリー・ブン・アブドゥッラーは一族を連れてヨルダン南部のフマイマ村に移住し、一族がフマイマ村に落ち着いた直後にアブー・ジャアファルが誕生する[10]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:82 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef