マンスール
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この項目では、アッバース朝のカリフについて説明しています。その他の用法については「マンスール (曖昧さ回避)」をご覧ください。

アル=マンスール
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カリフ(アミール・アル=ムウミニーン)
フランシスコ・デ・スルバランによるマンスールの肖像画
在位754年 - 775年

全名アブー・ジャアファル・アブドゥッラー・イブン・ムハンマド・アル=マンスール
出生712年/13年/14年
フマイマ村
死去775年10月7日
メッカ近郊
配偶者ウンム・ムーサー
子女アル=マフディー、ジャアファルなど
家名アッバース家
王朝アッバース朝
父親ムハンマド
母親サッラーマ
宗教スンナ派
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アブー・ジャアファル・アブドゥッラー・イブン・ムハンマド・アル=マンスール(アラビア語: ??? ???? ??? ???? ?? ????? ???????‎、 Ab? Ja?far ?Abd All?h ibn Mu?ammad al-Man??r、712年[1]/13年?[2][3][4]/14年[1] - 775年10月7日)は、アッバース朝の第2代カリフ(在位:754年 - 775年)。即位後に用いた称号(ラカブ)の「アル=マンスール」は「勝利者[1][5]」「神の助けを受ける者[1][5]」を意味する。漢語史料での表記は「阿蒲恭払」。

アブー・ジャアファルは預言者ムハンマドの叔父アッバースの4代目の子孫にあたる。747年からのアッバース革命で戦果を挙げ、754年に異母弟サッファーフの跡を継いでカリフの地位に就き、「アル=マンスール」を称した。即位したマンスールはウマイヤ朝の官僚制度と地方行政機関を踏襲・整備し[4]、新都バグダードを中心に国家体制を構築していく[3]。マンスールの治世にアッバース朝の支配体制が確立され、そのために彼は王朝の実質的な創始者と見なされている[1][3][4]10世紀末までのアッバース朝の黄金時代の基盤はマンスールの時代に完成したとされ[6]、最大の功績にはアッバース朝の首都バグダードの建設が挙げられる[5]西アジア世界においては、孫のハールーン・アッ=ラシードとともによく知られているアッバース朝のカリフである[7]

マンスール以降に即位したアッバース朝のカリフは、全て彼の直系子孫である[8][9]
生涯
若年期

アブー・ジャアファルは、アッバース家の家長ムハンマド・イブン・アリー・イブン・アブドゥッラーフとベルベル人の奴隷サッラーマの子として生まれた。ウマイヤ朝のカリフ・ワリード1世の時代にアブー・ジャアファルの祖父アリー・ブン・アブドゥッラーは一族を連れてヨルダン南部のフマイマ村に移住し、一族がフマイマ村に落ち着いた直後にアブー・ジャアファルが誕生する[10]

父のムハンマド、兄のイブラーヒームはアリー家のアブー・ハーシムの遺言に従ってウマイヤ家の打倒を目指し、有力者の支持を取り付けるため各地にダーイー(宣教員)を派遣した[11]。アブー・ジャアファルの前半生には不明な点が多いが、744年に第4代正統カリフアリーの兄ジャアファルの子孫アブドゥッラー・ブン・ムアーウィヤが起こした反乱に参加したと伝えられている[12]748年[13]にウマイヤ朝によってイブラーヒームが投獄された後、危機を察したアブー・ジャアファルは弟のアブー・アル=アッバースら親族とともにイラクのクーファに避難する[14]。クーファのシーア派の中心人物であるアブー・サラマはアッバース家の人間を密かに保護し、アブー・ジャアファルたちの元にはシーア派の人間が集まり、一大勢力を形成した[15]
カリフ即位

仲間内での抗争を防ぐため、アッバース革命の中で誰がウマイヤ家のカリフに代わる新たなイスラームの指導者になるか明確にされていなかった[16]。749年9月にホラーサーン地方で挙兵したダーイーのアブー・ムスリムがクーファに入城し、新たな指導者の選出が始められる。アブー・サラマは正統カリフ・アリーの一族からカリフを選ぶ事を望んでいたが、アブー・ムスリムらホラーサーンの革命軍はアッバース家のアブー・アル=アッバースをカリフに選出してバイア(忠誠の誓い)を行い、アブー・サラマもやむなくアブー・アル=アッバースの即位を認めた[17]。749年11月にクーファでアブー・アル=アッバースがカリフへの即位を宣言し、翌750年にウマイヤ朝のカリフ・マルワーン2世が殺害されたことが確認されると正式に新王朝が樹立された[18]

750年[19]、アブー・ジャアファルは将軍ハサン・ブン・カフタバとともに、ウマイヤ朝のイラク総督ヤズィード・イブン・フバイラが立て籠もるワーシトを包囲する。11か月に及ぶ包囲の末、ヤズィードと彼の家族、家臣の安全と全財産を保障する条件でワーシトに入城した[20]。ヤズィード一族の勢力を警戒するアブー・ムスリムとサッファーフはヤズィードたちの処刑を命じ、アブー・ジャアファルは命令の遂行を拒否し続けたものの押し切られ、ヤズィードと彼の長男、家臣を処刑する[20]

アブー・アル=アッバース(サッファーフ)の即位後、アブー・ジャアファルにアリー家出身者のカリフ選出を主張したアブー・サラマへの対処が求められる。アブー・ムスリムが派遣した刺客によってアッバース家の人間が泥を被ることなくアブー・サラマを粛清することができたが、アブー・ジャアファルはアブー・ムスリムの能力と軍事力に恐れを抱くようになる[21]。クーファに帰還したアブー・ジャアファルはサッファーフからジャズィーラ地方イラク共和国北部、シリア・アラブ共和国トルコ共和国にまたがるメソポタミアの地域)の統治を任され、モースルに赴任したくようになる[22]

754年にアブー・ムスリムは二心がないことを示すためにアッバース朝の首都アンバールを訪れ、サッファーフと談笑した[23]。そしてアブー・ムスリムは歴代のカリフが直々に行うメッカ大祭に向かう巡礼団の総指揮を申し出たが、総指揮はすでにアブー・ジャアファルに委任されていた[23]。この時にアブー・ジャアファルはサッファーフにアブー・ムスリムの排除を進言したが、サッファーフは功績のあるアブー・ムスリムの粛清を躊躇い、アブー・ジャアファルの意見は容れられなかった[24]。巡礼団にはアブー・ムスリムが補佐として同行し、両者は一定の距離を置きながらも衝突を起こすことなく巡礼を終えたと考えられているが[25]、巡礼の途上でアブー・ジャアファルとアブー・ムスリムの間に諍いが起きたとも言われている[26]


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