マンシュ県
[Wikipedia|▼Menu]

マンシュ県
Manche
マンシュ県章
位置

概要

県番号50
地域圏ノルマンディー
県庁所在地サン=ロー
郡庁所在地アヴランシュ
シェルブール=アン=コタンタン
クタンス
郡4
小郡27
コミューン477
県議会議長フィリップ・バ
LR
統計
人口
国内52位  (2011年)
499,531人
人口密度84人/km2
面積15,938 km2
1 「French Land Register data」(1平方キロ以上の湖沼、エスチュアリー、氷河などの水面積除く。
テンプレートを表示

マンシュ県(Manche)は、フランスノルマンディー地域圏の県である。
地理マンシュ県の地図第二次世界大戦中に撮影された、コタンタン半島のボカージュ

マンシュ県は、カルヴァドス県オルヌ県マイエンヌ県イル=エ=ヴィレーヌ県と接している。コタンタン半島を含み、西部、北部、北東部はイギリス海峡(フランス語名:マンシュ海峡)に面し、海岸線は約350kmである。

地勢学上、マンシュ県はアルモリカ山塊とつながっている。イギリス海峡によって土壌が分断されており、本質的にはノルマンのボカージュ(小さな森林や牧場、農地のある混合農地)に統一されている。北西から南東には、アーグ岬、セール谷地方、ヴァロネのボカージュ、平野、クタンス地方、サン=ロワ地方、アヴランサン地方がある。

人口の多数が農業に従事する。サン=ロー地方やシェルブール以外では、小さな都市や大きな市場町が網目状に連なっている。
由来

1790年2月26日、憲法制定国民議会が、17世紀半ば以降既に名前が確定されていたマンシュ海峡にちなんで県名を決定した。マンシュ(manche)は一般名詞では「袖」を意味する。
歴史

マンシュ県一帯に最初に定住したのはケルト系のウネレス族とアブリンカテス族であった。この地域は、ウィリドリクスの軍と戦っていたローマ軍に征服された(紀元前56年)。867年にはブルターニュの王国の一部となり、933年にノルマン人が一帯を征服した。1204年、フィリップ2世軍が侵攻し、アングロ・ノルマン諸島(現在のチャンネル諸島)を除いた一帯をフランスへ併合した。将来マンシュ県となる一帯は、ガリア人の王国であるコタンタンとアヴランサンに二分されていた。ユタ・ビーチにある、アメリカ軍による解放記念日を記念した境界標

アンシャン・レジーム時代のマンシュ県は、数々の戦争や反乱の舞台となった(百年戦争、公益同盟(fr)、ユグノー戦争、ヴァ=ニュ=ピエ反乱(en)、1793年ヴァンデ反乱時のグランヴィル包囲)。仏英間の18世紀の敵対関係が、2つの港の発展をもたらした。軍事基地の置かれたシェルブール、海賊の本拠地であったグランヴィルである。

マンシュ県は1790年3月4日、かつてのノルマンディー州の一部とカーン行政区(fr)を元として生まれた。県庁所在地は最初クタンスに置かれたが、1796年にサン=ローへ移された(郡庁所在地は変わらずにクタンスに置かれた)。クタンスは、第二次世界大戦で都市機能を破壊されたサン=ローに代わり、サン=ローの再建が完了するまで一時的に県庁所在地となった。1956年、マンシュ県はバス=ノルマンディー地域圏へ行政上統合された。

19世紀にマンシュ県で産業革命が始まったが、県は農業県としての特性を維持し続けた。製鉄業の発展、そして農産品の生産と輸出が県の主幹産業となった。

ドイツ軍は、1940年以降大西洋の壁を建設してイギリス海峡沿岸の防衛を強化した。1944年6月のノルマンディー上陸作戦が、コタンタン半島東岸のユタ・ビーチにおいて行われた(コブラ作戦)。このように第二次世界大戦の激戦区であったマンシュ県の数多くのコミューンは、市街の80%から90%が破壊された(県庁所在地であったサン=ローは、"廃墟の都"と呼ばれた)。1945年から1960年の間、人口の回復と急速な都市再建が進んだ。
気候

県の三方を海に囲まれているため、マンシュ県は海洋性気候である。冬は温暖で、アーグ岬へ面したボカージュの1月の平均気温は4℃から7℃あり、が降りるのは希である。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:39 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef