(国旗)(国章)
国の標語:Bersekutu Bertambah Mutu
Unity Is Strength
(マレー語: 団結は力なり)国歌:Negaraku(マレー語)
我が国
公用語マレー語
英語(準公用語)
首都クアラルンプール 注2
最大の都市クアラルンプール
政府
国王イブラヒム
首相アンワル・イブラヒム
面積
総計330,803km2(66位)
水面積率0.3%
人口
総計(2020年)32,366,000[1]人(44位)
人口密度98.5人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2020年)1兆4166億500万[2]リンギット
GDP(MER)
合計(2020年)3370億800万[2]ドル(39位)
1人あたり1万231.341[2]ドル
GDP(PPP)
合計(2020年)9037億400万[2]ドル(29位)
1人あたり2万7435.9[2]ドル
成立
イギリスより独立1957年8月31日[3]
マレーシア成立1963年9月16日[4]
通貨リンギット(MYR)
時間帯UTC+8 (DST:なし)
ISO 3166-1MY / MYS
ccTLD.my
国際電話番号60
注1: 連邦政府各庁舎および連邦裁判所はプトラジャヤへ移転。連邦議会議事堂は移転せず、法律上の首都はクアラルンプールのままである。英領北ボルネオ、サラワク、およびシンガポールのマラヤ連邦との統合を定めた英国・マレーシア関係合意文書マレーシア法1963(文書)
マレーシア(マレー語: Malaysia、英: Malaysia)は、東南アジアに位置し、マレー半島南部およびボルネオ島北部からなる連邦立憲君主制国家。首都はクアラルンプール。
イギリス連邦加盟国のひとつ。タイ、インドネシア、ブルネイと陸上の国境線で接しており、シンガポール、フィリピンと海を隔てて近接する。ASEANの一員。
1963年、マレー半島のマラヤ連邦とシンガポールに加え、北ボルネオ、サラワクを含む国家となる。インドネシアが反発し、国交断絶となる。また国内の民族対立から、1965年にはシンガポールが分離した。その後もマレー人と華人の民族対立が続いたが、1970年代からマレー人優遇策(ブミプトラ)に踏みきり、1980年代以降はマハティール・ビン・モハマド首相の主導するルック・イースト政策で工業化を遂げることに成功した。 正式名称は、Malaysia。(マレー語: [malajsi?])。 公式の英語表記は Malaysia([m??lε???])。 日本語の表記はマレーシアあるいはマレイシアである。ほかにマレーシャ、マレイシヤなどの表記もある。また、連邦制国家であることに鑑みマレーシア連邦とされることもある。漢字による当て字では馬来西亜と表記し、馬と略す。中国語表記は?来西?(簡体字) / 馬來西亞(繁体字)。略称は大?(簡体字) / 大馬(繁体字)。 マレーシアとは「『ムラユ (Melayu)』の国」の意味だが、この「ムラユ」という言葉自体は、サンスクリット語で「山脈のある土地」を意味する「マラヤドヴィパ (Malayadvipa)」を語源としている[5]。古代インドの時代には、交易商たちがマレー半島を指すときに使う言葉であった。その後、7世紀の唐の僧侶の義浄による記録に現れるスマトラ島に存在したシュリーヴィジャヤ王国(3世紀 - 14世紀)の他称『ムラユ王国』として継承され、近代に入ってからフランス人の探検家ジュール・デュモン・デュルヴィルによってマレーシアという言葉が生み出される[6]。もっとも、当時は現在のマレーシアのみならず、東インド諸島全体を指し示していた。そのため、現在のフィリピンが独立する際、国名をマレーシアとする案もあったとされる[7] が、フィリピンよりも先にマラヤ連邦(現在のマレーシア)が先に自らをマレーシアと呼称するようになり、現在に至る。
国名
国外での表記
名称の由来
歴史詳細は「マレーシアの歴史」を参照
13世紀 - アラブ商人やインド商人と共にイスラム教が伝来し、仏教とヒンドゥー教の時代が終わった。
1400年 - マラッカ王国成立。
1511年 - ポルトガル、マラッカを占領(ポルトガル領マラッカ、1511年 - 1641年)。
1542年 - マラッカからポルトガルの鉄砲が日本に伝来した(鉄砲伝来)。
1549年 - イエズス会のフランシスコ・ザビエルがマラッカを出発し、日本到着。
1641年 - オランダ、マラッカを占領(オランダ領マラッカ
1777年 - 隣国シャム(現在のタイ)のソンクラー国主に福建省?州府海澄県出身の華僑・呉譲が就任。以後、ソンクラー国を拠点としてシャム軍がパタニ王国、ケダ・スルタン国