この項目では、南北アメリカの黒人奴隷について説明しています。その他の用法については「マルーン (曖昧さ回避)」をご覧ください。
18世紀のシマロン
マルーン(Maroon)は、西インド諸島、中央アメリカ、南アメリカ、北アメリカの逃亡奴隷である。マルーンの居住地は南はアマゾン川流域から北はアメリカ合衆国のフロリダ州とノースカロライナ州まで、西半球の広範囲にわたる。
一般的にマルーンは、アフリカからアメリカ大陸に連れて来られた最初の奴隷が逃亡し、山中で武装し、自給自足の生活を送った集団を指す。各地によって異なる事情があるため、全く違った文化が見られるが、共通しているのは、アフリカ文化の伝統をコミュニティーにおいて継承した点と、それぞれの地域で白人の支配者と闘い、奴隷解放運動に寄与したという点である。マルーンはブラジル、スリナム、フランス領ギアナ、プエルトリコ、キューバ、ジャマイカ、ハイチの歴史において重要な役割を演じた。例えば、ハイチのフランソワ・マッカンダル、ジャマイカのグラニー・ナニー、ブラジルに成立したキロンボ・ドス・パルマーレス
(ポルトガル語版)のズンビなどマルーンの指導者たちは反乱を起こし、それぞれの国で歴史的な英雄となっている。19世紀から森林の開発が進むと、ガイアナやスリナムといった国においてもマルーンの共同体はしばしば消滅し、町に降りて都市化した生活をするマルーンも増加傾向にある。しかし、現代においても、ジャマイカなどの一部のマルーンは山中のコミュニティで生活しているという。 マルーン(Maroon)という名前は、野生であることを意味するスペイン語の単語「シマロネス」(cimarrones)の、英語とフランス語の転訛である。「マルーン」という単語は、ジャマイカの逃亡した黒人を指して広く使用されたが、カリブ海全域で使用されている。フランス語では、どのような逃亡奴隷にも「marron」という単語を使用した。ガイアナにおいては、逃亡奴隷はブッシュ・ニグロ(Bush Negroes)またはリフュジー・ブラック(Refugee Blacks)として知られていた。 スペイン語圏では、マルーンの村のことをパレンケス(palenques)、またはキロンボス(quilombos)と呼び、自由黒人をパレンケロス(palenqueros)と呼んだ。 西半球の国々に散らばっているマルーンの文化は、それぞれの歴史、地理、アフリカの国籍、そして文化の違いによって、バラエティーにあふれている。多くのアフリカの伝統がマルーンの共同体によって保存された。いくつかの共同体では、薬草を傷病者に施すとき、特別なドラムとダンスと合わせて薬草を使用する。多くの他のアフリカの治療と魔術的な儀礼が、何百年もの間存続した。 ブラジルの逃亡奴隷の集落は、キロンボ
用語と他の用法
マルーンの文化
世界各地のマルーン
ブラジルパルマーレスのズンビの胸像
フランス領ギアナ・オランダ領ギアナ・イギリス領ギアナ詳細は「en:History of Suriname#Slavery and emancipation」を参照
ギアナ地方にも多くいる。フランス領ギアナの逃亡奴隷は「ネグマルーン」(仏: Neg'Marrons)、オランダ領ギアナ(en、現スリナム)では「ボスネガー」(蘭: Bosnegers)、イギリス領ギアナ(en、現ガイアナ)では「ブッシュ・ニグロ」(英: Bush Negroes)と呼ばれ、いずれも「森のマルーン」という意味である。
スリナムのマルーン約2000人は、スリナムとフランス領ギアナの間を流れる境界線のラワ川(英語版)沿いに住んでいる。白人の農園主と植民地の軍隊に対する引き延ばされた抗争の後に、彼らはそこから逃げた。ジョン・ガブリエル・ステッドマン(1744年 - 1797年)の著書 "Narrative of a Five Years Expedition Against the Revolted Negroes of Surinam" によると、スリナムで見つけられた他のマルーン部族は、サラマカ(英語版)(Saramaka)、パラマカン(英語版)(Paramakans)、ンデュカ(英語版)(Ndyuka)、アウカン(英語版)(Aukan。現在はンデュカと同一視している)、キンティ(英語版)(Kwinti)とマタワイ(オランダ語版)(Matawai)であった。1770年までには、5,000か6,000人のマルーンがいたとされている。