マルワーン2世
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マルワーン2世
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ウマイヤ朝カリフ

在位744年 - 750年

出生691年?

死去750年8月5日
エジプト
家名ウマイヤ家
王朝ウマイヤ朝
父親ムハンマドマルワーン1世の子)
宗教イスラム教スンナ派
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マルワーン2世(アラビア語: ????? ?? ???? ?? ????? ?? ?????‎、Marw?n bin Mu?ammad bin Marw?n bin al-?akam、691年? - 750年8月5日[1])は、ウマイヤ朝カリフ(在位:744年 - 750年)。マルワーン1世の孫にあたる。
生涯

即位前のマルワーン2世は12年の間アルメニアアゼルバイジャンの総督を務めていた[2]。カリフ・ヒシャームの時代、マルワーンはヒシャームの兄弟であるアルメニア総督マスラマの下でハザール人と戦い、軍功を挙げた。アルメニア総督の地位に就いた後、マルワーンはハザール人の勢力圏に進攻し、ハザールの首長をイスラームに改宗させる[3]。その後もアルメニア各地の首長を攻撃し、彼らに臣従と貢納を約束させた[4]

744年にヤズィード3世ワリード2世を殺害してカリフの地位に就いた後、マルワーンはワリード2世の遺児をカリフの地位に就けるためにシリアに進軍する[5]。ヤズィード3世は在位6か月で没し、跡を継いだヤズィード3世の弟のイブラーヒームはマルワーンを迎撃するためにヤマン人からなる大軍を派遣した。マルワーンはイブラーヒームの軍を撃破して首都ダマスカスに到着するが、ワリード2世の子はすでにイブラーヒームによって殺害されており、またイブラーヒームとヤズィードの配下はワリード2世の支持者によって殺害されていた[6]。マルワーンが入城したダマスカスは無政府状態に陥っており、彼はダマスカスの人間から事態の収拾を期待され、喜びをもって迎え入れられた[7]。カリフに即位したマルワーンの年齢は、すでに60歳近くになっていた[2]

カイス族から支持を得たマルワーンは本拠地をダマスカスからメソポタミアのハッラーンに移すが、彼の決定はシリアの住民を失望させ、シリアで反乱が発生する[8]。シリアでの反乱と同時期にハワーリジュ派の信徒が反乱を起こすが、シリアでの反乱に乗じたビザンツ帝国の軍隊はアナトリア半島の領土に侵入し、マラティヤなどの都市が破壊される。ホムスパレスチナでの反乱を鎮圧したマルワーンはフワーリジュ派の攻撃に向かい、メソポタミアヒジャーズで勝利を収めた。また、パルミラ近郊のルサーファでウマイヤ家の人間が70,000の兵士を擁して起こした反乱も鎮圧し、30,000人の反徒を殺害したことが伝えられている[9]。マルワーンはシリア、パレスチナに逃亡した反乱軍を追撃し、ホムス、バールベック、ダマスカス、エルサレムなどの都市の城壁を破壊した。ウマイヤ朝はシリア、メソポタミアで発生した反乱の鎮圧に成功し、748年までにエジプト、メソポタミア、アラビア半島南部の支配を回復する[10]。マルワーンの即位前にマグリブでウマイヤ朝に対する反乱を起こしていたアブドゥッラフマーン・イブン・ハビーブは恭順の意を示し、マルワーンは彼をマグリブの総督に任命した[11]。しかし、747年に東方のホラーサーン地方でアッバース家が指導する武装蜂起(アッバース革命)が勃発し、西方に向けて進軍を開始していた。

アブー・ムスリムが指導するホラーサーン軍の攻撃を受けたホラーサーン総督ナスル・イブン・サイヤールはマルワーンに援軍の派遣を要請するが、反乱の鎮圧に忙殺されていたため、要請に応えることができなかった[12]749年に反乱の指導者であるアッバース家のイブラーヒームを捕らえ、同年にイブラーヒームはハッラーンの牢獄で没するが、残されたアッバース家の人間はイラクのクーファに潜伏する[13]。やがてクーファはホラーサーン軍の手に落ち、749年11月にアッバース家のアブー・アル=アッバース(サッファーフ)はこの地でカリフを称した[14]。マルワーンは軍を率いてハッラーンを発ち、750年1月にチグリス川の支流である大ザーブ川でアッバース家のアブドゥッラー・イブン・アリーと交戦した(ザーブ川の戦い)。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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