マルメディ虐殺事件
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現場に放置されたアメリカ兵の遺体

マルメディ虐殺事件(マルメディぎゃくさつじけん、Malmedy massacre)は、第二次世界大戦中に発生したドイツ軍による戦争犯罪である。バルジの戦い最中の1944年12月17日、ヨアヒム・パイパー親衛隊中佐指揮下のドイツ軍部隊により、捕虜となったアメリカ兵ら84人が殺害された。
経緯ヨアヒム・パイパー(1943年、当時SS少佐)1944年12月16日から19日にかけての第6SS装甲軍の攻勢を示す地図。中央近くに円で示されているのが虐殺の現場となったボネ(Baugnez)交差点である。5本の道路の合流点であることから、アメリカ軍ではファイブ・ポインツと通称された

1944年12月16日ドイツ軍は「ラインの守り」作戦を発動、ベルギー南部からフランス東部に展開した連合軍に対し、ルントシュテット攻勢(連合国側の呼称「バルジの戦い」)として知られる大攻勢を開始した。

同日、アーヘンからほど近いシェヴェンヒュッテ(ドイツ語版)に駐留していたアメリカ陸軍第285野戦砲兵観測大隊B中隊(Battery B, 285th Field Artillery Observation Battalion)の中隊長レオン・スカボロー大尉(Leon Scarborough)は、6時00分付で中隊が第7軍団から第8軍団(英語版)に移された旨の通達を受け取り、ザンクト・フィートの新しい砲兵司令部に翌日出頭することとなった。17日、スカボローは副官らに移動命令を伝達した後に9時00分頃司令部へ出頭し、さらにルクセンブルク第4歩兵師団付砲兵司令部への出頭を命じられたため、中隊に対し自分に合流するようにと追加で指示を出した[1]

B中隊は8時00分頃にシェヴェンヒュッテを出発した。車列はジープ、武器輸送車、2・1/2トントラックなど合わせて30両から成り、2つの集団に分かれていた。車列を率いる先頭のジープには副大隊長ロジャー・ミルズ大尉(Roger Mills)が乗車していた。12時15分頃、マルメディの街に到達[1]。この際、街を確保していた第291工兵大隊の指揮官デヴィッド・パーグリン中佐(David A. Pergrin)から、街の東側に存在するであろうドイツ軍部隊との遭遇について強い警告を受けたものの、中隊は行軍を継続することとなった[2]。すでに先導車として2人の兵士が載ったトラックが先行しており、彼らを孤立させることはできなかったためである。この際、車列後方の中隊長車など4両と27人の将兵は、ある伍長が体調を崩したために離脱し、マルメディの病院に向かった[1]

一方、攻勢の主力を務めるドイツ第6SS装甲軍の先鋒、ヨアヒム・パイパー親衛隊中佐率いるパイパー戦闘団は、ボネ(英語版)近くの交差点(ファイブ・ポインツ)へと進軍しつつあった。戦闘団はファイブ・ポインツの南東側を移動中であり、元々はこの南側を通り抜けようとする進路を取っていたが、車両の移動の効率を上げるために東側の道路へと出ている[2]。パイパー戦闘団は午前中にアメリカ軍から想定を超える反撃を受けたばかりで、作戦は予定から12時間も遅れていた。ヴェルナー・シュテルンエーベックSS中尉(Werner Sternebeck)に率いられた先導小隊も損害を受け、元々戦車7両と1個工兵小隊(ハーフトラック搭乗)から成っていたが、この時点では戦車2両とハーフトラック2両のみから成った[1]

当時ファイブ・ポインツ近くにあった建物は、南西側のCafe Bodarwe、その向こうの2つの農場のほか、北側の農場、東側の2つの民家といったものである。12時45頃、ミルズらが乗ったジープと憲兵の車両(マルメディを通過する第7機甲師団残余の先導を行っていた)がファイブ・ポインツを通過した。彼らが南側道路に出た時、ドイツ軍戦車による砲撃が始まり、先導車およびCafe Bodarweの前を通過中だった中隊最後尾の車両が撃破された。最初の砲撃を行ったのはシュテルンエーベックの車両であり、それに続いて他の戦車もそれぞれ5発から6発ずつの砲撃を行った後、先導小隊は直ちに南側道路へと向かった[1]
投降と虐殺

短時間の戦闘の後、ドイツ軍戦車が接近してきたことを確認したB中隊は降伏を決断した[2]。ファイブ・ポインツにいたB中隊員のうち、11人はこの衝突の最中に戦死したとされる。南側の道路に出たシュテルンエーベックは、アメリカ兵たちが隠れていた溝に向けて降伏を促す目的で機銃掃射を行った。その後、シュテルンエーベックは投降したアメリカ兵をファイブ・ポインツまで移動させ、指示を仰ぐべくパイパーの到着を待った。ところが、パイパーは作戦にさらなる遅れがもたらされたことに激怒し、早急にリヌーヴィル(英語版)への進軍を開始するよう命じた。13時30分頃、パイパーとシュテルンエーベックは主力部隊を率いて南へと進軍を再開した[1]

B中隊のアメリカ兵らがCafe Bodarweの南側の畑に集結する頃、マルメディから移動中だった米軍のトラックおよび救急車が近くを通りかかり、ドイツ側からの銃撃を受けた後、乗員の一部が捕虜となった。なお、病院に残っていたB中隊の4両もこれらのトラックより更に後に出発していたが、この時の銃声を聞いてマルメディへと引き返している。14時00分までに、113人のアメリカ兵が畑へと集結させられていた。内訳は、第285大隊員91人(3名のみB中隊以外の所属)、救急車に乗っていた10人、ファイブ・ポインツで交通整理にあたっていた憲兵1人、トラックに乗っていた工兵1人、さらに戦闘団が先立っての戦闘で捕らえて護送中だった11人である。14時15分頃、捕虜への銃撃が始まった[1]
虐殺の様相についてファイブ・ポインツでの接敵の状況。緑色の矢印がB中隊、赤色の矢印がパイパー戦闘団を示す事件現場を再現したジオラマ。アメリカ兵らはCafe Bodarwe横の畑に集められ、ドイツ軍装甲部隊の車列はファイブ・ポインツを通過してリヌーヴィルに向かって南下しようとしている。ボネ44歴史博物館(オランダ語版)の展示品

実際に行われた虐殺の様相については不確かな部分も多い。1945年1月の『星条旗新聞』に掲載された事件に関する記事「Nazis Turned Machine Guns on GI POWs」は、内容に脚色・誇張が含まれていたが、しばしば書籍や記事に引用されてきた。また、事件へのメディアの関心の高まりは、一部の生存者にさえ誇張した証言を行わせた。例えば、1989年に出版されたある生存者の著書では、第6SS装甲軍司令官ヨーゼフ・ディートリヒSS上級大将が虐殺の前に現場を行進したのを見たと述べているし、ミルズ大尉とともにジープに乗っていたバージル・ラリー中尉(Virgil Lary)は虐殺を生き延びた唯一の将校だが、タイガー戦車や88mm砲、無数の戦車に包囲された末に降伏したと後年語ったことがある。主にアメリカ側には、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーが、この攻勢にあたってアメリカ兵を捕虜に取らないよう命じていたことが虐殺に繋がったという説を支持する人々もいる。ヒトラーは確かに攻勢4日前の演説でそのような言葉を使っていた。しかし、パイパーは17日午前中の戦闘においてさえ数十人の捕虜を通常の手続きに従って後送していた。戦後の裁判でもこの説を立証する命令書などの証拠は見つけられなかった[1]

12月17日に21人の生存者らがマルメディにて行った証言は、メディアの注目や何らかの共謀の可能性などの要因がないため、もっとも事実に近いものと考えられている。彼らはおおむね同様の証言を行った。彼らは投降した後にファイブ・ポインツのすぐ南にある畑に集結させられ、ドイツ兵から機関銃とライフルで銃撃を受けたのだという。ほとんどの生存者が、一連の銃撃が始まる前にピストルの銃声を2度聞いたとしている。その後、ドイツ兵らが畑に入り、まだ生きている者を射殺したり、遺体を蹴ったり突いたりして生死を確かめるなどしていたという。それからドイツ軍は撤収していったが、車両上から手当り次第に銃撃を行っていく者もいた。生存者のうち、1人を除く全員が最初の銃撃より前に脱走を試みた者はいなかったと証言し、彼らが逃げようとしたのはドイツ兵が完全にいなくなったと思ってからのことだった。一方、ある証言者は最初の銃撃よりも先に脱走を試みて森に逃げ込んだのだと証言した。加えて、多くの生存者らの証言は、銃撃が始まる前に畑で大きな混乱が起きていたことを示唆している。ピストルの銃声が響いた時に混乱は頂点に達し、何人かのアメリカ兵は集団の後ろに逃れようと互いを押しのけ合い、この時にアメリカの将校が事態を収拾しようと「その場を保て!」(Stand fast!)と叫んでいたとする多くの証言がある[1]。ラリーが後の裁判で証言したところによると、ゲオルク・フレプス(Georg Fleps)というルーマニア出身のSS隊員が、最初にピストル2発を撃ったのだという。フレプスは空に向けて威嚇射撃をしたとも、アメリカ兵の頭を撃ったとも言われている[3]

一方、パイパーは事件に関する戦後の証言の中で、リヌーヴィルへ向かう途中に遭遇したアメリカ兵たちを3つのグループに分けて説明した。手を上げている者、地面や溝に寝そべっている者(戦死者あるいは死んだふりをしている者)、そして死んだふりをしていたが突然立ち上がって森へ逃げようとした者である。パイパーは後者2つのグループに対しては部下が威嚇射撃を行ったと述べた。ドイツ側に同情的な人々、とりわけ第1SS装甲師団(ライプシュタンダーテ師団)の元隊員らは、パイパーの副官だったハンス・グルーレ(Hans Gruhle)の証言を支持した。これによれば、まず本隊の到着はシュテルンエーベックの到着から10分以上後のことであった。そしてファイブ・ポインツへ移動していたアメリカ兵らは一見して護送されているようではなく、さらにドイツ軍が展開する東ではなく北へ向かっていたので、遅れて到着した本隊はこれを戦闘部隊と誤認して銃撃したのだという。ただし、事件当時にグルーレは戦闘団の車列後方におり、こうした状況を直接目撃できたわけではない。ドイツ側の証言も時と共に誇張され、アメリカ兵らが武器を取り戻して戦闘団の本隊に攻撃を加えたとさえ語られたことがある[1]

最初に回収された72体の遺体の解剖記録によると、遺体のうち20体については、自動火器による銃創に加えて、ごく至近距離から頭部に銃撃を受けた痕跡があり、これが致命傷となっていた。これら頭部の銃創の周囲には火傷の痕跡があった。別の20体も頭部に小火器の銃創があったが、火傷はなく、ある程度の距離から銃撃されたものとされた。別の10体には、恐らくはライフルの銃床によって撲殺された痕跡があった。


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