マルティン・ニーメラー
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マルティン・ニーメラー(1952年)

フリードリヒ・グスタフ・エミール・マルティン・ニーメラー(Friedrich Gustav Emil Martin Niemoller, 1892年[1]1月14日 - 1984年3月6日)は、ドイツ神学者海軍軍人福音主義神学者であり、古プロイセン合同福音主義教会ヘッセン=ナッサウ福音主義教会ルター派)の牧師であった。反ナチ運動家として知られ、詩『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』(Als die Nazis die Kommunisten holten)の作者。マルチン・ニーメラーとも表記。
生涯
出自リップシュタット市の生家

ノルトライン=ヴェストファーレン州リップシュタット出身。ニーメラーの父ハインリヒ・ニーメラー (1859年 ? 1941年) はルター派教会牧師、母はパウラ (1868年 ? 1956年) 、弟にはビーレフェルト福音主義教会牧師で歴史神学者になったヴィルヘルム・ニーメラー (1898年 ? 1983年) がいた。新約聖書学者 ルドルフ・ブルトマンを批判する大衆的信仰運動を起こしたルター保守派のルードルフ・バウマー牧師 (1912年 ? 1993年) はニーメラーの従弟であった[2]1900年、ニーメラー家はリップシュタットからエルバーフェルト (現在のヴッパータール) に転居した。1910年、マルティン・ニーメラーのこの地にある福音主義ギムナジウムに進学しアビトゥーアに合格した。
ドイツ帝国海軍士官時代ドイツ海軍士官としてのニーメラー

アビトゥーア合格後、マルティン・ニーメラーはドイツ帝国海軍士官を目指しフレンスブルク・ミュルヴィックの海軍士官学校に入る。見習士官として、防護巡洋艦として建造された練習艦「ヘルタ」に配属された。1912年3月に海軍士官試験に合格した後、士官としての訓練を続けた。同年9月、ヘルゴラント級戦艦テューリンゲン」に配属された。1915年から潜水艦隊に配属される。同年、10月Uボート支援艦「バルカン」に哨戒士官 (de:Wachoffizier) として着任する。その後Uボート乗り組み士官としての訓練をU3型潜水艦で受けた。1916年 2月、次席哨戒士官としてU 73(ドイツ語版)に乗り組んだ。1916年4月にはU 73で地中海に向かった。マケドニア(サロニカ)戦線支援とオトラント海峡封鎖に対抗するためであった。1916年12月からはエジプトの地中海沿岸都市ポートサイド沖で機雷を敷設し、通商破壊活動に従事した。1917年1月から哨戒士官として、ヴァルター・フォルストマン大尉が艦長を務めるU 39(ドイツ語版)に勤務した。同時期、この艦には後に海軍総司令官になったカール・デーニッツ中尉も勤務していた。哨戒終了後、この艦はキール軍港に帰投し、ニーメラーには一級鉄十字章が授与された[3]

1917年8月から大型のU 151(ドイツ語版)に先任哨戒士官として勤務した。U 151はジブラルタル海峡ビスケー湾等で数多くの商船を攻撃し沈めた。同年11月、U 151はフランス領西アフリカダカール港封鎖作戦に加わった。その時、後にノーベル賞を受賞するアルベルト・シュヴァイツァーがヨーロッパに向かう船にいたが、U 151によって港が封鎖され出航が阻止された。1958年になって、この出来事をアルベルト・シュヴァイツァーが手紙でマルティン・ニーメラーに伝えた。それに対して、ニーメラーはU 151でダカール海上封鎖に加わっていたことを認めた[4]

1918年5月、ニーメラーは小型UボートU67の艦長になった。同年7月、U67は南フランス沿岸での機雷敷設と海上封鎖を命じられた。しかし、敵艦船からの砲撃と航空機の攻撃を受け大きな損傷を受け基地に戻った[5]。修理を終えた後、マルセイユ港外に機雷を敷設し、3隻の商船計7万トンを沈めた。1919年1月にキール軍港に帰投し、Uボート艦長としての任務を終えた。ニーメラーは共和国政府を受け入れず、ヴァイマル共和国海軍には入らなかった。退役後、ミュンスター大学福音主義神学部に入学し、父と同じ牧師の道を目指した。1920年3月、ドイツ共産党 (KPD)を中心とする左派勢力によるルール蜂起が発生した。


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