マルチェロ・マストロヤンニ
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Marcello Mastroianni
マルチェロ・マストロヤンニ
 1950年代
本名Marcello Vincenzo Domenico Mastroianni
生年月日 (1924-09-28) 1924年9月28日
没年月日 (1996-12-19) 1996年12月19日(72歳没)
出生地 イタリア王国 フォンターナ・リーリ
死没地 フランス パリ
国籍イタリア
職業俳優
ジャンル映画
活動期間1945年-1996年
配偶者フローラ・カルベッラ(1950年 - 1970年)
著名な家族キアラ・マストロヤンニ(娘)
ルッジェロ・マストロヤンニ(イタリア語版)(弟)
ウンベルト・マストロヤンニ(イタリア語版)(叔父)
主な作品
甘い生活』(1960年)
イタリア式離婚狂想曲』(1962年)
8 1/2』(1963年)
ああ結婚』(1964年)
ひまわり』(1970年)
最後の晩餐』(1973年)

 受賞
カンヌ国際映画祭
男優賞
1970年ジェラシー
1987年『黒い瞳』
ヴェネツィア国際映画祭
男優賞
1989年BARに灯ともる頃
助演男優賞
1993年『Uno、due、tre、stella!』
栄誉金獅子賞
1990年
ヨーロッパ映画賞
生涯貢献賞
1988年
英国アカデミー賞
外国男優賞
1963年『イタリア式離婚狂想曲
1964年『昨日・今日・明日
ゴールデングローブ賞
男優賞(ミュージカル・コメディ部門)
1962年『イタリア式離婚狂想曲』
セザール賞
名誉賞
1983年
その他の賞

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マルチェロ・ヴィンチェンツォ・ドメニコ・マストロヤンニ(Marcello Vincenzo Domenico Mastroianni, 1924年9月28日 - 1996年12月19日)は、イタリア映画俳優第二次世界大戦後のイタリア映画を代表する二枚目スターで、国際的な人気を博した[1]フェデリコ・フェリーニ監督作品への出演や、ソフィア・ローレンとのコンビで知られる。

弟ルッジェロ・マストロヤンニ(イタリア語版)は俳優、叔父ウンベルト・マストロヤンニ(イタリア語版)は彫刻家。フランス人女優カトリーヌ・ドヌーヴとの間に生まれた娘キアラ・マストロヤンニは女優。
来歴

1924年9月28日にイタリア中部の町フォンターナ・リーリの家具職人の家に生まれたマストロヤンニは、イタリアの首都ローマと北部の工業都市トリノで育ち、その後徴兵されて第二次世界大戦イタリア軍の兵士として参戦した。

1943年9月8日にイタリアが連合国軍に降伏し、その後、イタリア北部がドイツ軍の占領下に入るとドイツ軍の捕虜収容所に入れられたものの、からくも脱出し、その後1945年までの間イタリア北部のヴェネツィアにいた。

第二次世界大戦が終結した1945年に演劇の世界に入り、ローマで映画の制作スタッフとして働くとともに、ローマ大学の演劇センターで俳優のレッスンを受け始める。その後イタリアを代表する巨匠、ルキノ・ヴィスコンティ監督に才能を認められ、1947年にイタリアで公開された『レ・ミゼラブル』(原題: I miserabili)で俳優としてのキャリアをスタートさせる。ああ結婚(1962年)フェデリコ・フェリーニ(左)とともに

その後は『バストで勝負』(1955年)や『女と男』(1957年)、 ルキノ・ヴィスコンティ監督の『白夜』(1957年)などに出演し、1959年に公開されたフェデリコ・フェリーニ監督の名作『甘い生活』(原題:『La Dolce vita』)で、ローマの上流階級を舞台に退廃的な生活を送るゴシップ記者を演じ、世界的な名声を得た。その後もフェリーニ作品では『8 1/2』(1963年)、『女の都』(1980年)、ローマにある巨大な映画撮影所「チネチッタ」のオープン50周年記念作品『インテルビスタ』(1987年)などに出演した。

また、イタリア女性らしさを演じている女優ソフィア・ローレンとの共演も多く、前述の『バストで勝負』やヴィットリオ・デ・シーカ監督のコメディ昨日・今日・明日』(1963年[2]、『ひまわり』(1970年)、ロバート・アルトマン監督の『プレタポルテ』(1994年)など多くの映画で共演し、名コンビとなった。

『甘い生活』の新聞記者役に代表されるような、典型的な「イタリア人プレイボーイ」的な役を演じたことで知られ、二枚目ながら三枚目的な雰囲気を漂わせた、人間味溢れる演技が特徴的な性格俳優として評価された。『イタリア式離婚狂想曲』(1963年)では初のアカデミー主演男優賞にノミネートされ、その後も『特別な一日』(1978年)で同じく主演男優賞にノミネートされた。『黒い瞳』(1988年)では同賞とカンヌ国際映画祭主演男優賞の両方にノミネートされ、アカデミー賞は逃したものの『ジェラシー』(1970年)に次いで2度目のカンヌ国際映画祭主演男優賞を受賞した。

晩年の70代に至るまでイタリア映画を中心に出演を続けたが、前述の『プレタポルテ』などのアメリカ映画への出演や、日本化粧品メーカーのテレビコマーシャルなどにも出演している。また、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}1980年代前半に市川崑監督、市川森一脚本によるオール外国人キャスト、オール欧州ロケによるコメディ日本映画の主演予定が報道されたが、実現には至らなかった[要出典]。

1996年12月19日フランスパリの自宅ですい臓ガンで死去した。72歳没。葬儀はローマの教会国葬扱いで行われ、多くの共演者やファンが世界中から駆けつけた。


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