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本名金原 正周(きんばら まさのり)
金均?(???)
生年月日1933年12月6日
没年月日 (2001-01-22) 2001年1月22日(67歳没)
出身地 日本・大阪市生野区猪飼野(現:生野区中川)
言語日本語
最終学歴大阪府立高津高等学校卒業
芸風パントマイム
ヴォードヴィル
事務所プロダクション人力舎
活動時期1956年 - 2001年
作品パントマイム
「スクリーンのない映画館」
戯曲
『花咲く家の物語』
『イカイノ物語』
他の活動俳優
劇作家
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マルセ太郎(まるせ たろう、1933年12月6日 - 2001年1月22日)は、大阪府出身のパントマイム芸人、俳優、ヴォードヴィリアン、劇作家。 在日朝鮮人二世として大阪市生野区猪飼野(現在の生野区中川)に生まれる。本名、金原 正周(きんばら まさのり)/金均?(キム・キュンホン、???)。大阪府立高津高等学校卒業後、1954年に上京した。もともと新劇俳優志望だったが、俳優座養成所の試験に落ちる。失意とヒロポン中毒の中、映画『天井桟敷の人々』を見てパントマイムを知り、マルセル・マルソーの舞台演技に影響を受けた。マルセル・マルソーにちなんだ芸名でパントマイム芸人としての活動を始めた。 高校の同級生に関西で活躍するジャズ・ピアニストの大塚善章がいた。 1956年、日劇ミュージックホールでデビュー。デビュー当初は「マルセル・タロー」を名乗った。フランス人の芸人と会話した際、「マルセル・マルソー」と発音しても相手に通じず、仕方なくマルソーの有名な蝶々のマイムをしてみせたところ「オー、マルセマッソー!」と感嘆したのを聞き、「マルセ太郎」と改名した。「スタミナトリオ」の名でコント活動を行った時期もある。
人物
出身
芸名
芸風
猿好きなまじめな性格が災いしたか、長らく人気が出ず、テレビ出演もわずかだった。しかし、芸人仲間や色川武大、矢野誠一、吉川潮ら見巧者からは高い評価を受けており、とりわけ動物の形態模写芸は得意であった。なかでも猿の形態模写はあまりに描写が正確で、逆に際物扱いされるほどだった。
批評
矢野誠一はマルセのサル芸をこう評している。
「内面的な描写からサルにせまり、本物のサルよりもはるかにサルらしく哀しげだ」
漫画家村上たかしは、擬人化された猿が逆にマルセの物まねをする作品
コント「トリオ・ザ・パンチ」で人気を博した内藤陳は、なかなか売れないマルセにこう語った。
「太郎さん、あんたの芸は『お笑いの芥川賞』だな。でもな、『直木賞』じゃなきゃなかなか売れないんだよ。」(このマルセ評を、マルセ本人は気に入っていたようである)
ある申年の正月、いくつかのテレビ演芸番組でサル芸を演じたマルセは「俺は12年に一度しか売れないのかなぁ」とぼやいた。それを聞いた立川談志は「じゃあ干支の動物全部やりゃあいいじゃねえか」と答えたという。
マルセを高く評価していた談志は、ある時、小さな酒場で行われたマルセの独演会にふらりと現れ、観客の前に立つと前説としてこう述べた。
「テレビでタモリ、たけしを見るのを、これ文明と申します。今夜、これから出てくるマルセ太郎を生で観るのを、文化といいます。みなさん、文化を楽しんでください。どうぞ」
芸人の傍ら、千歳烏山で夫人とともにスナック「人力車」を開業していた時期もある。店名は所属事務所「プロダクション人力舎」にちなむ。浅草の後輩にあたるビートたけしも何度か訪れたという。 1980年代には漫才ブームをよそに、独自路線での芸を展開し、一本の映画を一人で演じ語り下ろす映画再現芸「スクリーンのない映画館」を確立した。特に『泥の河』は知られている。 レパートリーはほかに『花いちもんめ』『ゴッドファーザー』『道(フェデリコ・フェリーニ監督)』『天井桟敷の人々』『息子』『椿三十郎』『ライムライト』『砂の器』や、映画以外に題材を得た『田中角栄物語』『中村秀十郎物語』『桃川燕雄物語』『ハイエナはなぜ嫌われるのか』などがある。 特異なキャラクターが買われての映画出演も多く、ことに『無能の人』(竹中直人監督)での演技は異彩を放った。 肝臓がんが明らかになっても、治療を行いながら精力的に活動を続けた。「がん」を患っていることは隠さず、「がんと共生し、しぶとく」とたびたび語っている。 この「スクリーンのない映画館」は、苦し紛れのアドリブと偶然から誕生した。マルセが定期的に独演会を行っていた小劇場でのことである。とある夜の公演で、ネタ切れを誤摩化すため、つい先日見た映画について語り始めた。マルセは年に100本近く映画を見る、大の映画ファンである。とある新作映画(マルセと同世代の子供の頃を描いた邦画)がいかにリアリティに欠けるものかを笑いを交えて扱き下ろし、それに比べて『泥の河』(小栗康平監督)がいかにリアルであるかを、映画のシーンの再現を含めて語ったのである。 客席の後方に、独特の笑い声を上げる男性がいた。色川武大からマルセの話を聞いた永六輔である。永からは後日マルセのもとに「感激、ただ感激 六輔」とだけ書かれた絵はがきが届き、両者の交遊が始まる。永からのアドバイスをもとに「泥の河」を練り直して映画再現芸「スクリーンのない映画館」として舞台にかけることになる。「スクリーンのない映画館」の評判は口コミで広がり、渋谷ジァン・ジァンでの公演は毎回完売となった。
独自路線
スクリーンのない映画館
永六輔との交遊
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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