この名前は、ポルトガル語圏の人名慣習に従っています。第一姓(母方の姓)はダス・ネヴェス、第二姓(父方の姓)はアルヴェス・カエターノです。
マルセロ・カエターノMarcelo Caetano
マルセロ・カエターノ
生年月日 (1906-08-17) 1906年8月17日
出生地 ポルトガル王国・リスボン
没年月日 (1980-10-26) 1980年10月26日(74歳没)
死没地 ブラジル・リオデジャネイロ
出身校リスボン大学
前職リスボン大学教授
所属政党国家連合党
配偶者マリア・テレサ・テイシェイラ・デ・ケイロス・デ・バロス
第101代ポルトガル共和国首相
在任期間1968年9月27日 - 1974年4月25日
大統領アメリコ・トマス
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マルセロ・ジョゼ・ダス・ネヴェス・アルヴェス・カエターノ(ポルトガル語: Marcelo Jose das Neves Alves Caetano, 1906年8月17日 ? 1980年10月26日)は、ポルトガルの政治家、首相。 1930年代、アントニオ・サラザールの権威主義的独裁(エスタード・ノヴォ)の下、出世が始まった。1933年、リスボン大学の法学教授になったカエターノは行政法と憲法学を体系的に研究し、多様な講演や論述活動を通じてエスタード・ノヴォ体制の正当性を擁護した。すぐに体制の要人となり、1940年にヒトラーユーゲントを模倣した組織であるポルトガル青年団(Mocidade Portuguesa)の長官、1944年には植民地大臣にも指名された。1949年、組合議会(Camara Corporativa)の議長を経て1955年には副首相へ昇進し、政権内の後継者に浮上したが、権力の分散を望まなかったサラザールの牽制を受けて強力な立地を構築することはできなかった。1959年、学界に復帰してリスボン大学の総長に就任したが、1962年の学術波動に触発されたキャンパス内の紛糾で引責辞任している。 1968年、サラザールが突然の事故により執務不能となると、アメリコ・トマス
生涯
体制の基本的な骨格は維持しつつ、限られた改革で難局を解決しようとしたカエターノの姿勢は、内外からいずれも不満を買った。トマス大統領を始めとした保守派はこれ以上の如何なる政治的開放にも反対し、反体制勢力は不十分な改革を批判した。特に植民地戦争を踏襲、帝国の守護を強調したカエターノの政策は厭戦感情が高まりつつあった民衆と軍部に失望を与えた。ポルトガル本国と植民地が連携される連邦国家の創設を構想したカエターノは、植民地問題だけは譲歩する意思がなかった。それまでも政府への批判は社会党、共産党が先頭に立って行っていたが、それら政党は政府を打倒する武力はなく、代わって軍部に期待が寄せられるようになった[2]。この時期、ポルトガル軍の将官に体制打倒に同調する素地も作られていた。ポルトガル軍の士官はかつて上流階級によって占められていたが、第二次大戦後の社会の変化により上流階級からの志願者が減少した。植民地戦争が起こった1960年代には志願者の減少から、士官学校はあらゆる階層の国民を受け入れるようにもなっていた。こうして、士官にプロレタリア階級出身者が多く生まれるようになった[3]。
さらに1973年6月、政府が徴兵を受けた従軍中の大学卒兵を優遇する政策(帰国して1年間教育課程を受ければ、将校に昇格させる)を発したことで、彼らは決定的に反政府へと転じるようになった。下層出身者が士官学校を4年間かけて卒業して手に入れた将校の地位(彼らの唯一の出世の手段であった)に、大学に通える資産があるだけのアマチュアが1年で就いて同格になることへの強い反発があった[4]。たまたま押し寄せたオイルショックの影響は、ポルトガルの経済に短期的かつ重大な打撃を与え、カエターノ政権がこれにうまく対処できなかったため、民間でも不満が高まった。