マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp、1887年7月28日 - 1968年10月2日)は、フランス生まれの美術家[1]。20世紀美術に決定的な影響を残した。画家として出発したが、油彩画の制作は1910年代前半に放棄した。チェスの名手としても知られた。ローズ・セラヴィ(Rrose Selavy)という名義を使ったこともある。2人の兄、ジャック・ヴィヨン(Jacques Villon, 1875年 - 1963年)とレイモン・デュシャン=ヴィヨン(Raymond Duchamp-Villon, 1876年 - 1919年)も美術家。1955年、アメリカ国籍を取得した。
近年の研究では、代表作の『噴水(泉)』を含む多くのデュシャン作品は、ドイツの前衛でダダイストの芸術家・詩人の女性、エルザ・フォン・フライターク=ローリングホーフェン(Elsa von Freytag-Loringhoven)が制作したとされている[2][3][4]。
概論デュシャンの墓
デュシャンはニューヨーク・ダダの中心的人物と見なされ、20世紀の美術に最も影響を与えた作家の一人と言われる。コンセプチュアル・アート、オプ・アートなど現代美術の先駆けとも見なされる作品を手がけた。
デュシャンが他の巨匠たちと異なるのは、30歳代半ば以降の後半生にはほとんど作品らしい作品を残していないことである。彼が没したのは1968年だが、「絵画」らしい作品を描いていたのは1912年頃までで、以降は油絵を放棄した。油絵を放棄した後、「レディ・メイド」と称する既製品(または既製品に少し手を加えたもの)による作品を散発的に発表した。1917年、「ニューヨーク・アンデパンダン展」における『噴水(泉(男子用小便器に「リチャード・マット (R. Mutt)」という署名をした作品))』が物議を醸した。その後、『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』という通称「大ガラス」と呼ばれるガラスを支持体とした作品の制作を未完のまま1923年に放棄し、ほとんど「芸術家」らしい仕事をせずチェスに没頭していた。なお、チェスはセミプロとも言うべき腕前だった。1963年には、服を着たデュシャンがヌードのen:Eve Babitzと対局しているシュールな写真作品を発表している[5]。
彼のこうした姿勢の根底には、芸術そのものへの懐疑があり、晩年の1966年、ピエール・カバンヌによるインタビュー[6]の中でデュシャンは、クールベ以降絵画は「網膜的になった」と批判しており、「観念としての芸術」という考えを述べている[7]。
「芸術を捨てた芸術家」として生前より神話化される傾向のあったデュシャンに批判的な声(ヨーゼフ・ボイスによる「デュシャンの沈黙は過大評価されている」など)もあったが、死後、ひそかに制作されていた遺作(『(1)落下する水、(2)照明用ガス、が与えられたとせよ』)が発表され、周囲を驚かせた。墓碑銘に刻まれた「死ぬのはいつも他人ばかり」という言葉も有名。 1887年、ノルマンディー地方セーヌ=マリティーム県ブランヴィル=クレヴォンの裕福な家庭に生まれる。父は公証人。マルセルは7人兄弟の3男であった。兄のガストンとレーモンはともにマルセルより10歳以上年長で、それぞれジャック・ヴィヨン、レーモン・デュシャン=ヴィヨンの名で、美術家として知られている。他に姉が1人(早世)と妹3人がおり、すぐ下の妹シュザンヌはデュシャンのモデル及び協力者として知られている。 マルセルは兄らの影響で少年時代から絵を描き始める。高校を卒業後、1904年、パリに出てピュトー派の兄らと合流。兵役終了後、アカデミー・ジュリアンで絵画を学んだ。初期には印象派やフォーヴィスム風の作品や、『階段を降りる裸体』(1911年、1912年、1916年制作の3バージョン)のようなキュビスムと未来派の影響を受けた絵画作品もある。 1911年、連続写真を思わせる『汽車の中の悲しげな青年』を制作。この年、フランシス・ピカビアと知り合い、影響を受ける。翌1912年、出世作『階段を降りる裸体No.2』、『花嫁』などを描く。しかし、所属していたキュビスムを研究するグループの保守的な批判(『裸体は階段を降りるものではない』と題名の変更を求められた)に憤慨し、グループ展に出品していた作品を取り下げる。この1912年に油絵を複数制作後、油絵をほとんど放棄する。 1913年2月-3月、ニューヨークのアーモリー・ショー(アメリカにおけるヨーロッパ現代美術の最初の大規模な展覧会)では仲間からは批判を受けた『階段を降りる裸体No.2』を含む4点が展示された。それは、ヨーロッパの最新の芸術が輸入されてきたと(若干の誤解を伴って)スキャンダラスな話題を呼び、「屋根瓦工場の爆発」などと新聞で揶揄され、アメリカにおけるデュシャンの名を大きく広め、ニューヨークに移り住む大きな足がかりとなった。後半生にほとんど絵画作品を手掛けなかったデュシャンが有名であるのは、この『階段を降りる裸体No.2』によるところが大きい。 第一次世界大戦中の1915年に渡米し、ニューヨークにアトリエを構える。1919年、いったんフランスへ帰国。以後はアメリカとフランスを行き来しつつ、おもにアメリカで活動する。アメリカにはルイーズ&ウォルター・アレンスバーグ夫妻という、デュシャンのパトロンとなる人物がいた。以後のデュシャンの主要作品はほとんどがアレンスバーグ夫妻のコレクションとなり、フィラデルフィア美術館に寄贈されて一括展示されている。また、コレクターのキャサリン・ドライヤー、美術家・写真家のマン・レイとも親交を結んでいる。 1915年に制作が始められ、1923年に未完のまま放棄された、通称『大ガラス』は、デュシャンの仕事を語る上で欠かすことができない。これは、高さ約2.7メートルの2枚の透明ガラスの間に、油彩、鉛の箔、場所によっては「ほこり」で色付けをした作品である(マン・レイは大ガラスを撮った「埃の培養」という作品を残している)。上部の「花嫁」の領域と下部の「独身者」の領域に分けられるが、この作品の構想や各部分の表す意味については、難解で哲学的なメモ類(『グリーンボックス』など)が残っており、これらを分析することでデュシャンでなくとも「大ガラス」を再制作することが可能である(東京大学に瀧口修造、東野芳明監修のもと再制作された『大ガラス』東京バージョン(1980年)があるほか、ウルフ・リンデ
生涯
初期
渡米以後
先述のように大ガラス以降、デュシャンは自らの作品をつくることに興味を喪失したかのようであったが、『トランクの中の箱(デュシャンのそれまでの作品をミニチュアのように一つのトランクに収めたもの)』などそれまでの作品のミニチュアコレクションとも言うべきものを作成したり、マン・レイ、キャサリン・ドライヤーとソシエテ・アノニム(株式会社という意味)を運営し、芸術作品の目利きをつとめるなどした。また、ダダやシュルレアリスムの展覧会にも展示会場のデザインなどで、散発的に協力しており、活動の中心を担うことはしないものの、常に周辺にいて、存在感を発揮した。 早い時期に油絵を放棄したデュシャンは、既成の物をそのまま、あるいは若干手を加えただけのものをオブジェとして提示した「レディ・メイド
レディ・メイドと『泉』
アルフレッド・スティーグリッツによって撮影された写真の一枚である。
なかでも、普通の男子用小便器に「リチャード・マット (R. Mutt[10])」という署名をし、『泉』というタイトルを付けた作品(1917年制作[11])は、物議をかもした。