マルセル・グリオール
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ミシヨン・ダカール=ジブチ(フランス語版)に赴いた学者たちの集合写真。トロカデロ民族誌学博物館(フランス語版)にて1931年に撮影された。前列中央、手を組んでいる人物がマルセル・グリオール。

マルセル・グリオール(Marcel Griaule、1898年5月16日 エジー=シュル=アルマンソン - 1956年2月23日 パリ)は、フランス民族学者である。西アフリカ内陸部のサンガ(フランス語版)(現在はマリ共和国領)に住むドゴン族の研究で知られる。サンガでフィールドワークを行い、タマネギとピーマン栽培用の灌漑ダムの建設を励ましながら地域の発展にも寄与した。

民族誌学に関係して、重要な貢献のひとつは、ドゴンの宇宙発生論が、西洋のいくつかの宇宙発生論とすくなくとも同じくらいには重要であるというデモンストレーションをした。しかし、ドゴン族の宇宙認識における西洋の影響を過小評価しているとひどく非難されることとなる。アフリカの伝統的葬儀を研究した稀少な民族誌学者のひとりである。
生涯ドゴン族の彫刻(ルーブル美術館)

マルセル・グリオールは1898年5月16日にフランス共和国ヨンヌ県のエジ=シュル=アルマンソン(フランス語版)村に生まれた[1]。父方はオヴェルニュからヨンヌに移住してきた家系であり、母はブリの人であった[1]。当初は自然科学に興味があり、リセ・ルイ=ル=グランの数学特進クラスで中等教育を受け、エコール・ポリテクニークに入学する準備をしていたが、第一次世界大戦の勃発により学業の中断を余儀なくされた[1]。士官を養成するための学校に入り、飛行機の操縦技術などを学んだ後、軍人としてオスマン帝国領シリア(英語版)に向かった[1]

終戦後、軍を除隊したグリオールは、大学で高等教育を受けることを希望した[1]。興味の中心は言語学民族学に移り、東洋言語研究所や高等研究応用学院で学んだ[1]。1927年にアビシニアの言語(アムハラ語)でディプロムを取得し、翌年の1928年から1929年まで宣教のためエティオピアに赴き、数ヶ月をそこで過ごした[1]

マルセル・グリオールは、1931年から1933年まで、アフリカ大陸を西から東へ横断する遠征旅行を指揮した(ミシヨン・ダカール=ジブチ(フランス語版))[2]ミシェル・レリス、アンドレ・シェフネールとそのたの民族学者たちが、この機会にフィールドワーク民族学を開始した。この探検の間、グリオールはドゴン族について研究し、その調査に多大な成果を成し遂げた。

1941年から人類学者のジェルメーヌ・ディテルラン(フランス語版)とともに、マリのバンジャガラ(英語版)でフィールドワークをした。その成果として発表したドゴン族の天文学に関する論文は「ドゴン族がノンモの一つとしてシリウスB星の存在を知っていた」とする内容を含み、学術界外にもよく知られることとなった[3][4]。ただし、1990年代に調査手法に問題があったとする論文も提出されている[4]。シリウスB星はシリウスの連星系を構成する白色矮星であり、通常、肉眼では見えない。

1943年から1956年の彼の死まで、パリ大学ソルボンヌの教授(民族学筆頭)をつとめた。『ユニオン・フランセーズ(フランス語版)』誌の顧問でもあった。1940年からは、『ソシエテ・デ・アフリカニスト(フランス語版)』誌の事務局長をつとめていた。

民族学者でヌーヴェルヴァーグの映像作家ジャン・ルーシュはグリオールの教え子で、彼と共同監督した短篇ドキュメンタリー映画がある。Les Magiciens de Wanzerbe(1948年)がそれである。


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