マルセイユの大ペスト
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マルセイユの大ペスト国家による介入を例示する西暦1720年のトゥレット(マルセイユ)におけるペスト、ミシェル・セール。ニコラ・ローズがトゥレット通りの遺体を埋葬している場面は、多くの図像学的表現の対象となっている[1]
疾病ペスト
細菌株ペスト菌
最初の発生レヴァントから入港したグラン・サン・タントワーヌ号
場所マルセイユ
日付1720年5月25日-1722年8月
死者数マルセイユで3万-5万人(推計)

マルセイユの大ペスト(マルセイユのだいペスト、フランス語: Peste de Marseille)とは、1720年のマルセイユで発生したフランスにおける最後のペストエピデミックであり、第二次ペストパンデミックの再燃と関連している。

1720年5月25日に、シリアのレヴァントからやってきた商船グラン・サン・タントワーヌ号がエピデミックの起源となったことは広く流布されている。事実、貨物の綿織物や綿花がペスト菌に汚染されていた。重大な過失に続き、旅客及び貨物の検疫を含む非常に厳格な防疫体制にもかかわらず、ペストは市内へと伝播していった。特に多くの感染者が出たのは貧民や高齢者である。港湾の周辺に住むイタリア系の住民から広がり、迅速に市内へと拡大し、そこで8-9万の総人口のうち、3-4万人の死者が発生した。州全体では、人口約40万のうち、9万-12万の死者が発生したと考えられている。

感染の恐れがある船舶に適応される規則が守られなかったことについての責任は、船長であるジャン=バティスト・シャトー、およびマルセイユ市筆頭市参事会員ジャン=バティスト・エステルに帰せられている。公的な証明はなされていないものの、エステルと検疫に責任を持つ衛生責任者が非常に軽率だったことは確実である。一部の品物、特に織物類については最初に検疫を受けることになっていたにもかかわらず、最終的にはマルセイユで荷卸しされてしまった。

この流行の間、食糧供給および遺体搬送は深刻な問題であり、市参事会員でも勇敢な人々が動員された。ニコラ・ローズの指揮下、ガレー船海軍工廠のガレー船乗組員が動員され、トゥレット通りからの遺体が搬送されたことは、この悲劇的事件の中でも重要な事象である。マルセイユ司教であるベルサンス司教が指揮した聖職者たちは、瀕死の人々たちに道徳的な慰めを与えた。

マルセイユ市における大流行は直接の目撃者でもある画家ミシェル・セールの一群の作品を始め、非常に多くの芸術的表現をもたらした。大流行は歴史的にも非常に大きな出来事であり、マルセイユに住む人々の記憶の中に常に存在している。
大流行前夜のマルセイユ
経済的状況

17世紀末からの多額の負債を抱えていたマルセイユ市の財政難にもかかわらず、1714年に結ばれたラシュタット条約スペイン継承戦争終了時に締結された―に伴う一時的な社会不安が収まると、マルセイユ市の交易は再び盛んとなった。1714年にレヴァントからマルセイユ港に持ち込まれた物品の価値は2300万ポンドというこれまでにない額面に達した[2]。疫病の発生はこの生活環境の向上と同義である力強い好景気に突然の急停止をもたらすこととなった。
都市計画

当時のマルセイユ市は、ルイ14世の命令を受けたニコラ・アルヌールが建築した新しい塁壁に完全に囲まれていた。また塁壁は港湾の出入り口に設けられた2つの強力な要塞である、サン・ジャン要塞とサン・ニコラス要塞によってさらに強化されていた。中世の城壁は取り壊され、市域は65ヘクタールから195ヘクタールへと3倍に拡張された[3]。生まれた市域には垂直に交差する新しい複数の道路が建設された。この結果、マルセイユ市にはペストの伝播にも影響を与得ることとなった、2種類の都市空間が出現した[c 1]。マルセイユ港の北側には、中世以来の狭く、曲がりくねった不衛生な通りからある旧市街地があり、職人や商人が住んでいたが、ペストが最初に発生し、またもっとも猛威を振るった場所でもあった。東部や南部は、ローマ通り、パラディ通り、サン・フュレオール通りという新しい道路とそれに伴い開発された新市街であった。
衛生規則

ペストはマルセイユ市に常在する脅威であり、ペストが土着している中東に関連して、頻繁に流行が発生していた[4]。特に1580年の流行は非常に致死率が高く、1720年ほどではないにせよ多数の死者を出した[e 1]。検疫体制が徐々に整えられ、その効果を示したため、1720年当時においては直近60年間疫病の発生はなかった[c 2]。検疫体制はレヴァントにある港湾に発行される衛生通行証を伴う地中海規模の防疫線と、乗組員、旅客、貨物の隔離期間を決定する衛生管理者からなる衛生局から構成されていた。
衛生証明書

レヴァントの港に寄港する各船舶には、フランスへの帰港を希望する船舶の船長に対して港の領事が衛生証明書を発行された、そこには都市の衛生状態が記載されていた。衛生証明書は以下の3種類である。

健康証明書、出港した時間、領域において、感染症の疑いが全くない場合発行される。

「感染の疑いがある」証明書、出港地において、感染症の徴候が疑われるときに発行される。

「感染地」証明書はペストが流行している場合発行される
[g 1]

健康証明書の場合、検疫期間は通常人が18日、船舶が28日、貨物が38日であった。この期間は疑いがある場合は25、30、40日に、感染地の場合は35日、50日、60日へと延長された[5]
衛生局1719年に建てられた旧港湾地区の衛生局。

マルセイユには衛生局が設立されていた。成立した日時は不明であるが、1622年以前であることは確実である。プロヴァンス高等法院の発行した文書に、その設立について言及した部分が存在するからである[b 1]。衛生局は市会により1年毎に更新されていて、商人、船長経験者からなる14人の有志から構成されていた。衛生局長は局員が毎週交代で担うことになっており、週番の名称を与えられた[c 2]。市会と衛生局の連携を円滑にするため、衛生局の末席には衛生局員を経験した市参事会員が2名参加することになっていたため、合計は16人であった。任務の遂行のため、さらに多くの職員の支援を受けていた。秘書や事務員である。内科医と外科医もまた、この組織に加えられていた[6]


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