マルゴット・ホーネッカー
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東ドイツ政治家マルゴット・ホーネッカーMargot Honecker
マルゴット・ホーネッカー(1986年)
生年月日 (1927-04-17) 1927年4月17日
出生地 ドイツ
プロイセン自由州
ハレ・アン・デア・ザーレ
没年月日 (2016-05-06) 2016年5月6日(89歳没)
死没地 チリ
サンティアゴ
所属政党ドイツ共産党(1945-1946)
ドイツ社会主義統一党(1946-1989)
配偶者エーリッヒ・ホーネッカー
ドイツ民主共和国
国民教育大臣(ドイツ語版)
内閣オットー・グローテヴォール内閣
第1次ヴィリー・シュトフ内閣
ホルスト・ジンダーマン内閣
第2次ヴィリー・シュトフ内閣
在任期間1963年 - 1989年11月7日
国家評議会議長ヴァルター・ウルブリヒト
ヴィリー・シュトフ
エーリッヒ・ホーネッカー
ドイツ民主共和国
人民議会議員
在任期間1950年 - 1989年
その他の職歴
ファーストレディ
1976年10月29日 - 1989年10月18日
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マルゴット・ホーネッカー(ドイツ語: Margot Honecker、1927年4月17日 - 2016年5月6日)は、ドイツ民主共和国(東ドイツ)の政治家。旧姓ファイスト(Feist)。同国のエーリッヒ・ホーネッカー国家評議会議長の妻。1963年から1989年まで東ドイツの国民教育相を務めたが、東西ドイツ統一後は夫のエーリッヒとともにチリに亡命し、同国で没した。
経歴1949年10月7日 東ドイツ建国時のマルゴットとヴィルヘルム・ピーク大統領

マルゴットはハレ・アン・デア・ザーレに生まれた。父親は靴職人、母親は工場労働者だった。13歳の時母が死去。国民学校を卒業し、ドイツ女子同盟(BDM)に加入。販売業に務めた後、電話交換手となった。1945年にドイツ共産党に加入。翌年同党がソ連占領地域ドイツ社会民主党と合同しドイツ社会主義統一党(SED)になると、同党に加入しザクセン=アンハルト州の自由ドイツ労働者組合で速記者となった。1946年に自由ドイツ青年団(FDJ)のハレ支部代表委員の一人となり、翌年同州FDJ文化・教育部長となった。1948年にはFDJ中央委員会書記となり、ピオネール組織「エルンスト・テールマン」の代表に就任した。1949年にドイツ民主共和国暫定人民議会議員に選出され、翌年正式に22歳と最年少の人民議会議員となった。モザンビークサモラ・マシェル大統領と会見するマルゴット(1983年)演説するマルゴット(1988年、ポツダム

1952年12月、FDJ中央委員会委員長だったエーリッヒ・ホーネッカーとの間に長女ゾニアが生まれた。当時ホーネッカーはエディト・バウマン(ドイツ語版)と結婚していたが、SED書記長ヴァルター・ウルブリヒトはホーネッカーを離婚させ、マルゴットと再婚させた。マルゴットは国民教育副大臣となり、1963年には国民教育相に就任した。大臣として1965年に「統一社会主義教育法」を施行。1971年からSEDの書記長となっていた夫のエーリッヒが1976年に国家元首である国家評議会議長を兼ねたため、マルゴットが東ドイツのファーストレディとなった。1978年には教会や保護者の反対を押し切って学校に軍事教練を導入した。兄マンフレート・ファイシュト(ドイツ語版)はSED中央委員会海外情報部長となった。

1989年に東欧革命が発生し東ドイツにも及ぶと、ヴィリー・シュトフ内閣の辞任とともにマルゴットも辞任した。


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