マルコ・ポーロ
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この項目では、イタリアの商人・冒険家について説明しています。その他の用法については「マルコ・ポーロ (曖昧さ回避)」をご覧ください。

マルコ・ポーロ
マルコ・ポーロの肖像[注釈 1]
生誕1254年
ヴェネツィア共和国
死没1324年1月8日
ヴェネツィア共和国 ヴェネツィア
墓地サン・ロレンツォ教会(en)
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯45度26分14.25秒 東経12度20分43.79秒 / 北緯45.4372917度 東経12.3454972度 / 45.4372917; 12.3454972
職業商人、冒険家
著名な実績『東方見聞録
配偶者ドナータ・バドエル
子供ファンティーナ、ベレーラ、
親父:ニコーロ・ポーロ
母:不詳
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マルコ・ポーロ(: Marco Polo、1254年頃 - 1324年1月8日[1])は、ヴェネツィア共和国商人であり、ヨーロッパ中央アジア中国を紹介した『東方見聞録』(写本名:『イル・ミリオーネ (Il Milione)』もしくは『世界の記述 (Devisement du monde)』)[2][3]を口述した冒険家でもある。
概略

商取引を父ニッコロ・ポーロ(イタリア語版)と叔父マテオ・ポーロ(イタリア語版)に学んだ。1271年、父・叔父と共にアジアに向け出発し、以降24年間にわたりアジア各地を旅する。帰国後、ジェノヴァとの戦争に志願し、捕虜となって投獄されるが[4]、そこで囚人仲間に旅の話をし、これが後に『東方見聞録』となった。1299年に釈放された後は豪商になり、結婚して[5]3人の子供に恵まれた。1324年に没し、サン・ロレンツォ教会(イタリア語版)に埋葬された。

彼の先駆的な冒険は当時のヨーロッパ地理学にも影響を与え、フラ・マウロの世界図が作成された。またクリストファー・コロンブス[6]など多くの人物に刺激を与えた。マルコ・ポーロの名はマルコ・ポーロ国際空港やマルコポーロヒツジ(英語版)にも使われ、彼の生涯をテーマにした小説映画なども製作された。
生涯
幼少時

マルコ・ポーロがいつ、どこで生まれたか正確には分かっておらず、現代の説明はほとんどが推測である。その中で最も引用される情報は1254年生まれというものである[注釈 2]。 生誕地は一般にヴェネツィア共和国だったと受け取られており、これも正しい場所は不明ながら多くの伝記にて同様に書かれている[7][注釈 3]

生家は代々続く商家で[9]、父親のニッコロは中東貿易に従事し、財と地位を成しつつあった[10][11]。ニッコロとマテオ兄弟はマルコが生まれる前に貿易の旅に出発し[11]コンスタンティノープルに住み着いた[12]

1260年、異変の予兆を察知したニッコロとマテオは、財産をすべて宝石に換えてコンスタンティノープルを離れ[10]毛皮貿易で栄えるクリミアへ向かった[12]。『東方見聞録』によると、彼らはアジアを東へ向かい、クビライとも謁見しているという[13]。この間、マルコの母親は亡くなり、彼は叔父と叔母に養育された[11]。マルコはしっかりした教育を受け、外貨や貨物船の評価や取り扱いなど商業についても教わった[11]が、ラテン語を履修する機会は持てなかった[10]
アジアへの旅詳細は「#マルコ・ポーロの旅」を参照旅の行程

1269年、ニッコロとマテオの兄弟はヴェネツィアに戻り、初めてマルコと会った。そして1271年後半[3]に兄弟は17歳のマルコとともに後に『東方見聞録』に記録されるアジアへの旅に出発した。

一行は船でアクレに渡り、そこから陸路でホルムズへ向かった。その途上、新教皇決定の知らせを受けて一旦エルサレムに戻り、教皇グレゴリウス10世からクビライに宛てた手紙を預かり、再び東へ向かった[14]

一行がの都・上都へ到着した時、マルコは21歳になっていた[15]。 一行はクビライに気に入られ元の役人として登用され、マルコは外交使節としてインドビルマを訪れた。彼は帝国領内や東南アジア(現在のスリランカインドネシアベトナム)各地を訪れ、任務の傍ら現地で見聞きしたことを語ってクビライを楽しませた。マルコ達は足かけ17年間を中国で過ごした[16]

マルコ達は何度もクビライに帰国を願い出ていたが、彼らとの交流を楽しみ、また有能な人材として評価していたクビライは当初はそれを拒み続けた[17]。 しかし1291年、遂に帰国を許され、イルハン国アルグン・ハーンに嫁ぐ皇女コケジンへの随行を最後の任務として命じられた[15]。任務を終えたマルコ一行がコンスタンティノープルを経て[15]ヴェネツィアへと戻ったのは出発から24年後の1295年、全行程15,000kmの旅であった[18]
後半生

帰国から3年後、ヴェネツィアは敵対していたジェノヴァと交戦状態に入った。マルコは所有するガレー船を投石機で武装させてヴェネツィア軍の一員として参戦した[19]。そして1296年、アナトリア沿岸のアダナイスケンデルン湾の間の海域で行われた小規模な海戦で[20]ジェノヴァ軍に捕らえられた[4][21]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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