マルコムX
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この項目では、人物について説明しています。この人物を主人公にした映画については「マルコムX (映画)」をご覧ください。

マルコム・X
Malcolm X
1964年3月
通称マルコム・リトル(出生名)
エル・ハジ・マリク・エル=シャバーズ(ムスリム名)
生年 (1925-05-19) 1925年5月19日
生地 アメリカ合衆国
ネブラスカ州オマハ
没年 (1965-02-21) 1965年2月21日(39歳没)
没地 アメリカ合衆国
ニューヨーク州ニューヨーク
思想黒人民族主義
汎アフリカ主義
活動公民権運動
黒人解放運動
所属ネーション・オブ・イスラム
ムスリム・モスク・インク
アフリカ系アメリカ人統一機構
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マルコムX(Malcolm X, 1925年5月19日 - 1965年2月21日)、出生名マルコム・リトル(Malcolm Little)は、アフリカ系アメリカ人の急進的黒人解放運動指導者[1]、イスラム教導師である。公民権運動の時代に活躍し、特に貧困層のアフリカ系アメリカ人から支持された。彼はネーション・オブ・イスラムスポークスマンだったが、後に教団を離脱した。

マルコムは、父親の死と母親の入院後、一連の児童養護施設や里親の家で青春時代を過ごした。彼は20歳から27歳まで服役したが、刑務所の中でネーション・オブ・イスラムに参加し、マルコムXという名前を採用した("X"はアフリカ系の先祖代々の名字が不明であることを象徴している)。マルコムXはその後12年間、組織の顔として活動し、黒人と白人の分離を提唱し、また非暴力と人種統合を重視するメインストリームの公民権運動を批判した。マルコムXは1950年6月29日に当時のトルーマン大統領に宛てた手紙のなかで「自分は以前から共産主義者であった」と記述して以降、連邦捜査局(FBI)の監視下にあった[2]

1960年代になると、マルコムXはネーション・オブ・イスラムとその指導者であるイライジャ・ムハンマドに幻滅し始めた。彼はその後、メッカへのハッジを完了した後、スンニ派イスラム教と公民権運動を受け入れ、エル・ハッジ・マリク・エル=シャバーズ(el-Hajj Malik el-Shabazz)として知られるようになった。 アフリカを横断した短い期間の後には、公然とネーション・オブ・イスラムを放棄し、ムスリム・モスク・インク(MMI)とパン・アフリカ主義アフリカ系アメリカ人統一機構(OAAU)を設立した。1964年を通じて彼とネーション・オブ・イスラムの対立は激化し、彼は何度も死の脅迫を受けることとなった。1965年2月21日、ニューヨークで暗殺された。3人のネーション・オブ・イスラムのメンバーが殺人罪で起訴され、無期懲役の終身刑が言い渡された。しかし暗殺がネーションの指導者や他のメンバー、あるいは政府によって考案されたのか、本当の実行犯は逮捕された3人であったのかなど、銃撃後数十年に渡って多くの仮説・推測が流れらこととなった。そして長い年月を経て、実行犯とされた3人のうち、2人の冤罪が確定した。

人種差別と暴力を説いたとして物議を醸したマルコムXは、人種間の平等と正義を追求したことでも、アフリカ系アメリカ人やその他の人種、世界の一部の人々に知られている。彼の死後に「マルコムXの日」が創設され、全米のさまざまな都市で記念式典が行われ、また何百もの通りや学校が、「彼にちなんで改名」されている。また2000年には彼が暗殺されたオーデュボン・ボールルームが一部再開発され、マルコムXとベティ・シャバズ博士の記念館と教育センターが設置された。
生涯

マルコムはネブラスカ州オマハに生まれる[3]バプテストの反体制的な牧師だった彼の父親アール・リトルは、アメリカに黒人の自由は存在しないと考えている人物だった[4]。母ルイーズは美人で肌の色は薄く、西インド諸島のグレナダ出身だった[5]。自宅敷地内に家庭菜園を作り家畜を育てほぼ自給自足に近い生活を送り、周辺に住む他の黒人のように白人に媚び諂い仕事を分けてもらうことを良しとしない人物だった。両親が万国黒人地位改善協会およびアフリカ人共同体連盟(UNIA・UNIA-ACL)(英語: Universal Negro Improvement Association and African Communities League)の活動家であったため、一家は当時大きな勢力を誇っていたKKKの標的にされていた。

父アールは1931年にミシガン州ランシングの道路上で、路面電車による轢死体となって発見された。警察は事故死とした扱われたが、母ルイーズは白人至上主義団体による殺人だと信じていた[6]。マルコムは、父・叔父の4人のうち、3人を白人による暴力によって殺害されている[7]。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}ルイーズは初婚であったが、当時マルコムの父は二つの保険会社の生命保険に入っており、その内の一つは受け取りの金額が僅か数百ドルと小額だったため保険金が支払われたが、もう一つの保険会社は受け取りの金額が大きかったため、警察が自殺と判断したとの理由により「保険金は支払われなかった」。[要出典]

ルイーズは、その母親(マルコムの祖母)が白人に強姦されて生まれた混血のムラートだと、周囲では噂されていた[8]。一見すると褐色の肌の白人と間違えられ、そのお陰で職を得られたこともあったが、白人の血が入った黒人であるとの噂が発覚すると即座に解雇された。ルイーズは夫の死後、9人の子供を一人で育てることになったが、精神を病み、精神病院に送られた[注釈 1]。その結果、子供たちはそれぞれ別の家へお里子に出された。マルコムは、以前からよく食事に行っていた近所のゴハナ家に里子に出された[9]が、自伝のなかで、ゴハナ家ではあくまでも高価あるいは珍しい動物としてしか扱われなかったと語っている[注釈 2]

マルコムは幼い頃から優秀な成績を収め、学級委員長に何度も当選もしたが、引越し先ではやむを得ず白人の学校に唯一の黒人生徒として通うこともあり、彼の席は常に一番後ろだった。白人教師からも将来何になりたいかを聞かれた際に弁護士医者と答えたが、「黒人はどんなに頑張っても偉くなれない。黒人らしい夢を見た方がいい」と諭され、手先の器用さと人当たりの良さを生かして「大工になることを勧められた」。後年のマルコムはこれについて、「先生がその日、私に忠告したことは善意だからとわかっている。私を傷つけようとする気はなかったのだ」と振り返っている。

マルコムは13歳の時に逮捕され、ミシガン州メイソン郡の少年鑑別所に入れられた後、ウエスト・ジュニア・ハイスクールに通った。中学クラスでは、黒人はマルコムのみで、他の生徒は全て白人だったという。ただ、マルコムは前述のように成績優秀なクラスの人気者だったため、マルコムのことを好意を寄せる女生徒もおり、またマルコムも白人のガールフレンドと交際していた[10]。ハイスクールに通った後、ミシガン州のハイスクールへ通ったが、卒業前に退学している[11][注釈 3]。その後マルコムは、異母姉のエラ(アールと前妻の娘)と一緒に住むためにボストンへ転居し、リンディー・ナイトクラブで靴磨きの仕事に就いた。自伝ではデューク・エリントンや他の有名な音楽家の靴を磨いたと語っている。また歴史あるオムニ・パーカー・ハウス・ホテルではテーブル片付け係として働いていた。このホテルはジョン・F・ケネディジャクリーン・ケネディ・オナシスにプロポーズした場所であり、ホー・チ・ミンがシェフをつとめていたことでも知られている[12]

その後、ニューヨークハーレムで、ナンバー賭博の仲介や、窃盗などの違法行為に手を染めた。


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