マルコム・パーセル・マクレーン
Malcolm Purcell McLean
1957年、ニュージャージー州 ニューアーク港(英語版)でのマクレーン
生誕マルコム・パーセル・マクレーン
Malcolm Purcell McLean
1913年11月14日[1]
ノースカロライナ州 マックストン(英語版)
死没2001年5月25日(87歳没)[1]
ニューヨーク州 ニューヨーク市
国籍 アメリカ合衆国
別名コンテナ輸送の父
職業発明家
起業家
活動期間1931年 - 2001年
純資産3億3千万ドル(死亡時)
肩書きコンテナ輸送の先駆者
マクレーン・トラッキング・カンパニー(McLean Trucking Company)創業者
シーランド(Sea-Land Service, Inc.)創業者
トレーラー・ブリジッジ(英語版)(Trailer Bridge, Inc.)創業者
ミシシッピ州 ダイヤモンドヘッドの投資家
配偶者サラ・マクレーン(Sarah McLean 、1959年 - 1992年)
イレーナ・マクレーン(Irena McLean 、1993年 - 2001年)
子供3人(サラとの間)
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マルコム・マクレーン(英: Malcolm Purcell McLean 1913年11月14日 ? 2001年5月25日)は、アメリカの起業家、発明家。
20世紀後半に輸送と国際貿易に革命をもたらした海上コンテナと複合一貫輸送プロセスとなるインターモーダル輸送を発明した輸送起業家。貨物のコンテナリゼーション(コンテナ化)により、個々の貨物を繰り返し荷役作業(ばら積み)する必要が無くなったことで貨物の輸送コストが大幅に削減された[注釈 1]。コンテナ化したことで信頼性が向上し、貨物の破損や盗難が減少し、輸送時間が大幅に短縮され、時間に正確となったことで在庫コストも大幅に削減された。輸送コストが大幅に下がったことで製造工場の場所を問う必要性が無くなったことで世界的物流網の発展に大きく貢献している[3]。
来歴(英語版)でマルコムは出生する[4]。出生名のスペルはマルコム「Malcolm」と綴られていたが、後に「Malcom」へと改名している[5]。
1931年、マルコムがウィンストン・セーラムにある高校を卒業した時、農家を営んでいたマルコムの両親は彼を大学に送るために必要な学費を持ち合わせていなかったため進学を諦めており、マルコムは親戚の紹介で地元の食料品店の仕入れ係として就職している。その後、隣町レッドスプリングス(英語版)にあるガソリンスタンドが経営者の募集をしており、マルコムは親戚のつてを頼り応募している[6]。ガソリンスタンド経営者となったマルコムはガソリンを仕入れるため親戚から借金し、5ドル安いガソリンを仕入れるため、45キロ離れたフィアットビルまで向かう際、ガソリンスタンドオーナーから裏庭に放置されていたオンボロトレーラーの使用許可を得たことが後の運送会社、「マクレーン・トラッキング・カンパニー(McLean Trucking Co.)」の発端となっている。ガソリンスタンド経営兼タンクローリー運転手としてたった一人きりの会社であった[6]。
まもなく地元で掘り出し物の中古ダンプカーが見つかり、売主に週3ドルのローン払いを認めて貰ったことでこの車両を購入。世界恐慌時代であり、フランクリン・ルーズベルトが宣言した経済政策「ニューディール政策」によって州の公共事業が開始されたことで土砂運搬の契約を勝ち取ることに成功。これで運転手を一人雇用することができたため、そこで、もう一台中古のトラックを購入し[7]、マクレーンは地元で生産された野菜の運搬を始めている[8]。なお、エピソードとしてニューヨークに野菜を運搬する際、橋の通行料が払えなかったため、通行料代わりにレンチを置いており、ニューヨークで積み荷を売却した際の売り上げで帰り道にレンチを取り戻している[8]。
1935年、22歳となったマクレーンは妹のクララ、弟のジムと共にトラック2台、トレーラー1台を保有し、車両持ち込みの運転手6名のほか、自身も一運転手として合計9名による運送会社マクレーン・トラッキング・カンパニー[4]をこの年正式に設立し、ノースカロライナ州、レッドスプリングスに本社を構えたマクレーン社は、ノースカロライナからニュージャージー州へのドラム缶輸送、ニューイングランドへは綿糸の大口契約などを結んだことで順調に軌道に乗り、1940年には戦後好景気も重なり、創業6年目にしてトラック30台、年商23万ドル(約2,500万円)に急成長する。競合他社の複数合併に対し訴訟を起こしながらも果敢に自社の輸送ルートの開拓を行ったことで車両保有台数は162台を数え、ノースカロライナ州からフィラデルフィア、ニューヨーク、ニューイングランド南部地域での輸送に強く、ここでは主にタバコ葉の樽輸送を行っている[9]。1946年には年商220万ドル(約2億4千万円)にまで成長している[10]。
1940年代後半は鉄道貨物需要が落ち込む中、道路整備が進んだことでトラックが台頭し始めており、トラック輸送は年々倍以上の伸びを示している。マクレーンは事業拡大を模索するが、当時アメリカは運輸法の下、新規路線は認可制度となっており、管轄する政府機関である州際通商委員会(ICC)による認可が必要であった。ICCは鉄道事業も包括していたため、鉄道貨物輸送の保護目的もあり簡単に認可されることは無く、輸送効率よりも秩序を重んじたため、数々の条件が設定されており非効率であった。そこで、マクレーンは認可を得るのでは無く、既に欲しい路線の認可を受けている企業の買収を開始する。また、買収額が高い場合、借りることでこれを解決した[11]。労働争議の影響もあり、経営不振に陥っている企業が山ほどあり買収は容易であった。最終的に10社以上を買収したことで1949年には保有台数が600台を超え、規模では全米第8位、利益率で第3位となる大手運送会社へと進化を遂げている[11]。
弱小企業であり運賃の安さでしか相手にして貰えなかったため、競争で勝ち抜くため創業当時からコスト意識が高く[11]、ガソリンエンジンが主流だった時代にディーゼルエンジン車両の採用、大口割引契約による指定給油所での給油、空気抵抗により燃費が変わるため、空気抵抗を減らす新技術を採用したトレーラーの採用、保険費用を減らすため新人とベテランによるチーム作りを行い、新人が年間通し無事故の場合、ベテランに1月分のボーナスを支給する制度を採用し大幅に事故を減らすことにも成功した。