マルグリット・ド・ブルゴーニュ_(1393-1442)
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マルグリット・ド・ブルゴーニュ
Marguerite de Bourgogne
フランス王太子妃
クリスティーヌ・ド・ピザンから『女の都』を献呈されるギュイエンヌ公爵夫人マルグリット、1405年
在位1404年 - 1415年

称号ギュイエンヌ公妃
リッシュモン伯妃
出生 (1393-12-08) 1393年12月8日

死去 (1442-02-02) 1442年2月2日(48歳没)
フランス王国パリ
配偶者フランス王太子ルイ
 リッシュモン伯アルテュール
家名ヴァロワ=ブルゴーニュ家
父親ブルゴーニュジャン1世
母親マルグリット・ド・バヴィエール
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マルグリット・ド・ブルゴーニュ(Marguerite de Bourgogne, 1393年12月8日 - 1442年2月2日)は、フランス北東部の諸侯ブルゴーニュ公爵家の公女。ブルゴーニュジャン1世(無怖公)の娘で、初めフランスシャルル6世の息子でルイ王太子の妃、死別後はブルターニュジャン5世の弟アルテュール・ド・リッシュモン(後のアルテュール3世)の妃になった。百年戦争後期、実家と婚家の間の政争の駒として生涯を送った。
生涯

1393年、ブルゴーニュ公フィリップ2世(豪胆公)の長男で継嗣のヌヴェール伯ジャン(後のジャン無怖公)と、その妻でバイエルン=シュトラウビンク公エノー伯ホラント伯・ゼーラント伯アルブレヒト1世の娘であるマルグリットの間の第1子、長女として生まれた。妹にイングランド・フランス二重王国の摂政ベッドフォード公ジョン・オブ・ランカスターの妻アンヌブルボン公シャルル1世の妻アニェス、弟にブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)がいる。

1394年7月9日、祖父の意向でフランス王シャルル6世の次男である王太子シャルル(1392年 - 1401年)の許嫁となる。2人は又従兄妹同士の間柄だった。1396年1月に正式に婚約が取り交わされ、マルグリットは「王太子妃(madame la dauphine)」と呼ばれるようになった[1]。マルグリットと妹たちは同時代人から「フクロウのように平らな顔をしている」と言われた[2]。姉妹はブルゴーニュ公爵家の愛情深く家庭的な雰囲気の中で育ち、父方の祖母のフランドル女伯マルグリット3世の手許で養育された[3]

1401年に婚約者のシャルル王太子が8歳で死ぬと、マルグリットの祖父とシャルルの母イザボー王妃は、アルマニャック・ブルギニョン内戦(英語版)に対処すべく、新たな政略結婚を模索した。1403年5月、マルグリットは亡き婚約者の弟で新たな王太子となったギュイエンヌ公ルイと婚約した[1]。婚礼は1404年8月末に行われた[4]。祖父は孫娘を未来のフランス王妃とすることで、ブルゴーニュ公爵家と王家の結びつきを保とうと考えていた[1]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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